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「小板橋」と「ゆふちどり」

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本町公園 石上 露子(いそのかみ つゆこ)歌碑 富田林市本町8ー15

 

小板橋      石上露子 

ゆきずりのわが小板橋 しらしらとひと枝にうばら 

いづこより流れか寄りし。 

君まつと踏みし夕に いひしらず沁みて匂ひき。

 

今はとて思ひ痛みて 君が夢も捨てむと なげきつつ夕わたれば、

あゝうばら、あともとどめず、

小板橋ひとりゆらめく。     

           ゆふちどり

明治 40年 (1907)12月 、与謝野鉄幹 が主宰 する『明星 』に、杉山家 の長女 「石上露子 」本名 杉山 タカ(1882~1959)が「ゆふちどり」のペンネームで「ゆきずりのわが小板橋...」の長詩 が掲載 されました。かつて恋心 を抱 いた長田(おさだ)正平 との思い出が露子 の心 の詩 としてつづられています。

 

石上 露子 

本名 杉山タカ(通称 孝子)。「富田林」で一番の旧家、杉山家の総領娘(長女)として明治十五年(1882)に生まれました。

 

             

生家 旧杉山家住宅 国重要文化財  

先祖は「八人衆」のひとりとして、戦国時代に証秀上人に従い、寺内町建設にあたり、以降町年寄の筆頭として、町を支えてきました。

「富田林」の民家で一番古い建物、タカは明治15年(1882)ここで生まれ、育ちました。

 

帳場机と掲げられた山岡鉄舟の墨蹟。

屋号を「わたや」といい、江戸の初めごろは木綿問屋であったようですが、貞享二年(1685)に酒蔵株を取得、その後造酒屋として栄え、「富田林のさか屋の井戸には 底に黄金の水が湧く」と唄われたほどです。

それも、タカが4歳の頃に造酒屋をやめ、60町歩もの田地をもつ大地主として「富田林」一の名家として、町を支えていました。

 

「くわえきせる無用」の道標の向かい、旧南杉山家の東の崖の上の見晴らしの良い場所に、恵日庵はあったようです。

すでに、初恋の人、長田正平との交際を絶たれ(明治34年、1901)、尊敬していた家庭教師 神山薫が解雇された(同4月)後、淋しさをまぎらわすように、文筆活動に専念したころに、父 団郎に建ててもらったようです、縁談のことと引き換えに。(明治36年 1903)

 

恵日庵は比高10mの河岸段丘崖の上にあり、竹藪を見下ろし、見渡すと清流 石川、向こうに金剛・葛城の山が見渡せる場所にあったようです。

日露戦争が始まる明治37年(1904)頃から結婚する明治40年(1907)まで、杉山家本宅からほど近い別荘「恵日庵」で、石上露子は多くの時間をここに籠り、文筆活動に明け暮れました。

 

「恵日庵」から石川に降りる急崖を下ったところに、かつて水車のあった深溝(ふこうど)井路から引き込んだ竹藪の細流(せせらぎ)に、1枚板の木橋(小板橋)が架けられていたようです。

この細流はおそらく上天候溝(かみあもぞ)井路に流れ込んでいたものと思われます。今はもう細流も木橋もありません。

 

恵日庵の下の竹藪。今もうっそうと残ります。

富田林の河岸段丘の崖には多く竹が植えられていました。今はほとんど切られてしまいましたが。

 

かつての細流付近には「石上露子の小板橋跡」の碑。

「小板橋 ゆきずりのわが小板橋 しらしらとひと枝にうばら いづこより流れか寄りし...」明治40年に『明星』12月号に「ゆふちどり」の筆名で掲載された「小板橋」は、後に多くの人の心を打つことになります。

そして、この12月は夫 荘平を迎えた時で、結婚後にすぐ夫に文筆活動を止められてしまい、これが恵日庵での最後の作品となります。

 

恵日庵近くの山ケ坂(山家坂)。

寺内町四坂のひとつで、一番狭い坂。おそらく寺内町創建期からあったと思われます。天保八年(1837)の「富田林村絵図」には木戸門が描かれています。

 

恵日庵には石川や金剛(右)・葛城連山の眺めとともに、鳥の鳴き声が届いていたと思われます。(恵日庵近くの段丘面から撮影)

 

石川のさゞれをふんで そのままの小道を庭までつゞら折のやうにつけて...

(石上 露子集 松村 緑 編「自伝 落葉のくに」1994 145pより 露子70歳頃の作品)

ときには文筆の合間に、石川のながれに気を休めることもあったようです。

 

石川の さゞれの上の ゆふちどり わが名によそへ 人もこひしか

(同 196p 自伝 落葉のくに)

そこには小千鳥(コチドリ)。

 

石川の河原にさゞれをふんで ちどりの声にほゝ笑んだあの夜は もちづきのまどかなかげのもと (同 120p 自伝 落葉のくに)

石上露子の作品には、「夕ちどり」の記述がよく出てきます。

この「夕ちどり」はおそらく清流 石川の白砂によく見かける「コチドリ」と思われます。

 

おそらく恵日庵のお部屋からも、石川のさざれにいるコチドリのピィーピィーと可愛く鳴く声が聞こえて、制作にふける露子は癒されたことでしょう。

コチドリは、露子が「ゆふちどり」と雅号にするほど、身近で親しみやすい存在であったのでしょう。

 

あな、千鳥の声なり、ひんがしの山に月はのぼりぬ。

あなや、また聴くよ、千鳥のこゑ、ふたゝび、みたび。

うつくしきわが姫のうれひ、かつ消えたり。

(同 44p 文芸誌『明星』辰歳6号)

 

よくつがいでいることが多く、仲睦まじいコチドリ。つがいで卵を抱くことも...

 

露子はいとしきひとの永遠の別れ(長田正平の出国)を聞き、恵日庵に籠り、時には庵からの急坂を下りて小板橋を渡り、石川のさざれの「ゆふちどり」に心を癒されたことでしょう。

 

奥座敷の床の間のこのトンネルを、おそらく小さい時妹の静子と何度もくぐったことでしょう。

そして、戦後まもなく浜寺の別邸から長年お手伝いさんとして仕えた山根カヨさんと戻り、二人きりの生活の場となったのもこの奥座敷でした。

 

影絵のようなおもむきのある障子の光影。

 

タカが晩年、生活をした奥座敷から見える庭園。

 

タカは昭和34年(1959)10月8日の、秋日和の昼下がり、この奥座敷で78歳で脳溢血のため急逝。お手伝いさんの山根カヨさんと二人きりの生活でした。

長谷川時雨(しぐれ) の『美人伝 』〔大正 7年 (1918)刊 〕には、『かつて、雑誌 『明星 』にはすぐれた五人 の女詩人 があった。』と紹介 され、『其歌 の風情 と、姿 の趣 をあは せて、白菊 の花 にたとへ られてゐ た。』と書 かれています。

参考文献: ・石上露子集 松村 緑編 1994年3月

・石上露子の人生と時代背景(追補版)石上露子を学び語る会 編 2012年5月

・恋して、歌ひて、あらがひて―わたくし語り石上露子 奥村 和子 2019年1月

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