【天文年間の古いお地蔵さん】 河内長野駅前
2025年2月28日 9:44 河内長野市長野町 国道170号線の駅前通り
河内長野駅のロータリーからわずか100mのところにある天文年間のお地蔵さんです。河内長野は古いものがたくさんありますね。
和泉砂岩で造られた舟形の一見普通のお地蔵さんですが、前掛けを失礼してお地蔵さんの左脇を見せてもらうと...
なんと天文四年(1535)、なんと490年前に造られたお地蔵さんでした。
【天文・天正年間の古いお地蔵さん】 観心寺
境内の西の端、楠公首塚と新待賢門院墓の間の小道を登ったところにある4体の地蔵さま。
いつも花を添えられて、同じ方向(南西)を向いておられます。
すこしほほえんでおられるようににも見える、中央前のいちばん小さいお地蔵さま。
なんと、天正八年(1580)の銘が記されています。「天正八年庚辰四月五日」
今から445年前の戦国時代真っ只中のお地蔵さんです。
右端のお地蔵さまです。
さきほどの地蔵さまとよく似た、同じく錫杖と宝珠をお持ちのお地蔵さま。
これも同じく天正八年の制作です。
中央のいちばん大きな地蔵さま
微笑んでおられるように見えますが、先ほどの3体とは、感じが違うようです。
なんと「天文十二年」と読めます。482年前、天文十二年は1543年、ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲が伝来した年ですね。(諸説あり)
【黄金橋】
2025年4月9日 11:46 河内長野市末広町 黄金橋
近鉄 南海の河内長野駅の東側、石川にかかる特徴のあるアーチ橋。歩行者専用として昭和61年(1986)に建設されました。
元々、欄干が赤、アーチ部分が青で塗られていましたが、塗装がとれてさび止め用の「べんがら」が見えています。
ところで、急坂を登った東側の長野公園に「黄金塚」があります。楠木正成が黄金を埋蔵したという伝承のある塚です。
「黄金橋」はこの「黄金塚」にちなんで命名されたそうです。
鎌倉末期に河合寺城のあった頃、楠木正成が軍資金を埋蔵したという伝承が残っているそうです。
たくさんある楠木支城群のひとつで、上赤阪城や千早城を守る前線基地のひとつ、河合寺城の曲輪(くるわ)に軍資金の黄金を隠したのでしょうか?黄金はまだ見つかっていません。
【マリア像?】
4月9日 11:38 黄金橋を渡り北に120m、巻井路を越えてすぐ、石造物が2基と一石五輪塔が1基ありました。左端に見える滝は河合寺川の「鳴滝」と呼ばれています。
手間にある石像は剃髪ではなく、錫杖や宝珠も持っていないので地蔵ではなさそうです。手をまっすぐ伸ばした不思議な形をしています。花崗岩製。
さらに奥の上には首のない石像と一石五輪塔があります。
この像も不思議な石像です。手を合わせキリスト教のロザリオにも見える数珠でお祈りをしているようにも見えます。砂岩製で後の時代に頭部と右腕を玄能(げんのう)のようなもので、叩き取られています。左腕にも打痕があります。つまり必要性があって破壊されたようです。マリア像を隠すためにその一部を破壊したのかもしれません。
明らかに地蔵とは異なる姿で遠くから見ると、ロザリオの下に十字架があるようにも錯覚してしまいます。またその下の紋は「八葉紋」と呼ばれている特別な家紋のようです。
八葉菊 八葉菊紋は、八枚の花弁を持つ菊。菊紋の中でも「十六葉八重表菊」は天皇および皇室を表す紋章。皇室から下賜されたものか、八葉菊はその半分の花びらです。
地蔵などは明治の初めの廃仏毀釈で頭を叩き取られているのは、南河内でも通法寺の僧侶のお墓や道明寺の墓地で見かけますが、河内長野のこの像はどうでしょうか?
ルイス フロイスの『日本史』において、「天正九年(1581)烏帽子形城とその領地は3人の戦国大名によって統治され、そのうち2名はキリシタン大名。300人のキリシタンを領民に持ち、城下には大聖堂の建設を試みる。」とあります。その内の1名の領主は伊地知文太夫(畠山秋高系の内衆)もしくは甲斐庄正治と推定できます。
伊地知文太夫は堺の自分の屋敷をイエズス会に寄進した武将で、これが堺の教会のはじまりと言われています。当時河内には七千人のキリシタンがいたと言われています。
江戸期になっても隠れキリシタンとして信仰を継続し、マリア像を損壊して察知されないようにしたのかもしれません。
【古くからのものが残る大日寺跡】
2025年2月21日 14:52 河内長野市喜多町 大日寺老人憩いの家
大日寺は明治初期に廃仏毀釈で廃寺になった融通念仏宗のお寺で、同じ河内長野の中本山 極楽寺の末寺であったそうです。その時の本尊の石造大日如来像ほか薬師如来像や不王明王像もここに保管されています。現在は老人憩いの家として利用されているようです。
公園の一角にある宝篋印塔。「法性塔」と銘が刻まれています。
「法界塔」はよく見ますが、「法性塔」と銘があるのは珍しいです。宝篋印塔としては「笠」の角度が緩く、「基礎」の段数が少ない古い形をしています。
正徳五年(1715)の建之。江戸中期前半に造られました。
喜多町の「太神宮夜燈」。伊勢灯籠です。となりが喜多町会館の地車庫。
宝暦十年に作られた南河内最古級の太神宮灯籠のひとつ。一番古いのは河南町神山(こやま)の「太神宮夜燈」で、宝暦四年(1754)に建之されています。
地蔵祠には「大日寺地蔵尊」と書かれています。他にたくさんの石碑や石塔が見えます。
花崗岩製の大きいアルカイックスマイルのお地蔵さんです。
その下に敷いてある石は、川原の丸石ばかり。賽の神ですね。お地蔵さんと賽の神で二重の厄災を跳ね返す効果です。
それにしてもたくさんの丸石。わざわざ川にある砂岩の丸石だけを選んでいます。
地蔵祠の横にある「南無阿弥陀仏」と彫られた石碑です。六字名号板碑かと思われます。
寛永六年(1629)と記銘されているようです。かなり古く、江戸前期に作られた板碑です。
小さい一石五輪塔や板碑、「お地蔵さん」、宝珠などが集められています。
ちょっと待って、このお地蔵さんなんか普通のお地蔵さんと違いますね。錫杖や宝珠を持っていませんし、頭の上の梵字 地蔵菩薩の(カ)がありません。袈裟形もよく解りません。また手を合わせていて、十字架を持っているようにも見えます。
実はこの「お地蔵さん」は「ヤソ地蔵」と呼ばれ、江戸期のキリシタン信仰を連想させます。江戸期はキリシタンはご法度ですから、地蔵に似せて石像を作ったのかもしれません。
喜多町大日寺近くの小字に「ヤソブ」の地名が残ります。ここから戦国期にキリシタン大名のいた烏帽子形城まで直線約700m。
いろいろよく解らないものがたくさんあります。
砂岩製の一石五輪塔。手前に宝珠部分も転がっています。
石柱の正面は「従是西南善福寺境内」と読めます。右に「延享元年(1744)甲子八月□」と記銘がありました。
善福寺というお寺もあったようです。
河内長野市は古くからの歴史が町中にたくさん残り、町全体が中世・近世の文化財のようです。
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写真撮影:2025年2月21日、4月9日、16日
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