今回は「あてまげ」です。戦国時代まっただ中に成立した富田林寺内町は外敵を防ぐため、町の中の「あてまげ」と出入口の遠見遮断をしていたようです。
「寺内町」の分布は北陸地方に数例、近畿中心に十数例と限られており、西日本や関東以北には存在していません。当時の一向宗(江戸期以降は浄土真宗)の布教地域と関係しています。
すでに河内エリアは蓮如が文明八年(1476)越前吉崎(福井県あわら市)を離れ、河内出口(枚方市)・和泉堺に移り、摂河泉で布教を続けました。さらにその後、天文年間(1532~55)には府下全体に布教域が拡がりを見せました。
富田林ではに証秀上人が弘治年間(1555~58)に南河内に布教。大いに一向門徒が増えました。
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すでに寺内町成立以前に周辺の毛人谷(えびたに)に「古御坊」=真宗道場があったことが小字図により解ります。
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創建当初の寺内町の密集度はどのようであったのでしょうか?
寺内町成立から約40年後の文禄5年(1596)検地帳では、屋敷地が65%、畑地が35%となっています。また、創建当時の人口730人、軒数170軒程度(1軒当たり4.29人)と想定すると、成立当初は、半数近くは家屋があるものの、まだ空き地の多い状態であったと考えられます。
おそらく創建当時の出入口は三差路か屈曲道路で防御のため遠見遮断をしており、さらに富田林の場合は町中でも辻を一間(1.8m)ほどわざとずらしてあります。
ただその実施率は32%(25辻中8か所)で、本当に防御のために死角を作ったのかと考えると少し疑問が残ります。
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ずらすことにより死角ができますから、隠れることができるとともに、向こうが見えないので当時の「最大の武器」である矢や鉄砲が目的に向かって打てない利点があります。同じ時期に成立した大和 今井も町中に「あてまげ」があります。
ふつうの辻での死角です。位置する場所により死角のできる場所は異なります。
青丸での死角は変わりませんが、赤丸に位置すると死角が広がります。
両方曲げるとそれぞれの辻での場所により死角が広がります。
当時の最大の武器、鉄砲や弓矢は相手が見えないと使えません。最強の武器の最大の短所を作り出すのがこの死角です。
つまり、戦国時代の真っただ中、町中で「市街戦も辞さないよ!」という意思表示で、自衛・防御の機能がより強く打ち出されています。
ただ、あてまげを施しても、当時の戦国大名の戦術として火矢を投じられ、町全体を「焼き討ち」されれば市街戦の意味はなくなりますが...
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戦国期に多くの寺内町が焼き討ちに遭っています。
市場筋北会所町 東西の「あてまげ」
それでは富田林寺内町の8つの「あてまげ」を見ていきたいと思います。
「あてまげ」は創建当初の町割りからあったと考えられています。
富筋北会所町 東西の「あてまげ」
写真の中の「西→東」は西から東を見たという意味です。
富筋西林町 両方向の「あてまげ」
富田林の「あてまげ」は東西に「あてまげ」られているものが6か所、両方向に「あてまげ」されているものは2か所、南北に「あてまげ」されているものはありません。
城之門筋壱里山町 東西の「あてまげ」
一番ずれているものは1間(1.8m)もずれています。
城之門筋北会所町 東西の「あてまげ」
右側の曲線の石橋は人工の防火溝「用心堀」をまたぐ橋。用心堀は今は暗渠になっています。
城之門筋南会所町 東西の「あてまげ」 意図的にしたとしか思えない1間近くずれた「あてまげ」。
城之門筋西林町 両方向の「あてまげ」 東西と南北にずれています。
市場筋南会所町 東西の「あてまげ」 ずれの幅は辻ごとに差があります。
永禄三年(1560)三好長慶 禁制
富田林には創建当初(1560)から江戸前期(1615)に至るまでの55年間に時の権力者や地域の有力戦国大名から合計十数通の「禁制」「定書」が残されています。
富田林寺内町が成立した年に出されました。寺内町を作るときに防御のしやすい10m近い崖の河岸段丘に土居や堀割を作り、出入口を屈曲させ、さらに町中の辻に「あてまげ」を施し、時の戦国大名や国人・土豪に対抗できるよう防御的な対抗をしました。
その一方で時の権力者に「矢銭」を送り、禁制・定書を発給してもらい、町を安堵してもらえるように対処しました。それは今に残る十数通もの「禁制」「定書」が物語っています。
もちろん「禁制」「定書」はタダで書いてもらえるわけではなく、それなりの出費が必要になります。一通につき3、4貫文は出しているようで現在のお金で40、50万。十数通なら55年で600~750万もの出費をしています。おそらく有力な町衆たちが合議で出したと考えられます。
石山合戦の時、富田林寺内町が大坂本願寺に加担しなかったことに対しての織田信長の安堵状。
このため、大和今井や大和下市、貝塚などのように信長に攻撃されることは回避できました。
富田林寺内町は戦国時代まっただ中に作られた防御機能を有した一向宗の計画的自治都市。しかし時の戦国大名を始めとする対抗勢力に対しては、町が戦場に巻き込まれないように努めました。山科本願寺、大坂本願寺、伊勢長島などの寺内町は存続すらできませんでした。
こうした中、富田林寺内町は成立時から和平路線をとり、矢銭を払っても町が戦乱に巻き込まれないように努力したようです。
富田林は一度も戦乱に巻き込まれなかった数少ない寺内町です。
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