Quantcast
Channel: 富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」
Viewing all 2690 articles
Browse latest View live

二上山からの日の出 ― 石川河川敷 3 

$
0
0

 2015.5.26.5:16 富田林市西板持町 石川河川敷 金剛大橋上流部

 

 2015.5.26.4:32

 

 2015.5.26.4:36

 

 【日が昇るまで】

 2015.5.26.5:05

 ↓ 

2015.5.26.5:14

2015.5.26.5:14

2015.5.26.5:14

2015.5.26.5:15

2015.5.26.5:15

2015.5.26.5:16

2015.5.26.5:17

2015.5.26.5:18

2015.5.26.5:19

 

 

 2015.5.26.5:03

 

撮影日:2015.5月26日

2015.5月26日 (HN:アブラコウモリH)

 


二上山からの日の出 ― 石川河川敷 4

$
0
0

2015.5.27.4:57 富田林市西板持町 上天溝(かみあもぞ)井堰

 

2015.5.27.5:02 富田林市西板持町 上天溝(かみあもぞ)井堰

田植えが今週か来週になりますので、各井堰が取水し、石川の流れは非常に少ない状態です。

 

2015.5.27.5:13 富田林市西板持町 上天溝(かみあもぞ)井堰

太陽が顔を見せました。いつもながら、身の引き締まる一瞬

 

2015.5.27.5:13 富田林市西板持町 上天溝(かみあもぞ)井堰

 

2015.5.27.5:15 富田林市西板持町 上天溝(かみあもぞ)井堰

太陽が顔全体を出すのに、約3分。以外に速いとは思いませんか?もちろん、地球が自転しているわけで、太陽は動いてはいませんが...

 

2015.5.28.5:18 富田林市甲田 朝焼けと白鷺

このころどこかから、やってきました。

 

2015.5.27.5:15 富田林市西板持町 上天溝(かみあもぞ)井堰

二上山に太陽が乗っかりました。

 

2015.5.28.5:19 富田林市甲田

水量が少なくなり、淀みました。浮かんでいるのは水草。おもしろい模様になりました。

 

2015.5.27.5:18 富田林市西板持町 上天溝(かみあもぞ)井堰

昨年見かけた雉は、いないなあ...こちどり、かるがも、せきれい、、しらさぎの仲間はたくさんいます。

 

2015.5.28.5:23 富田林市甲田

親子のしらさぎ。 ではなく、ダイサギとコサギと思います。

 

2015.5.28.5:20 富田林市甲田

早朝のひんやりした空気のなか...

 

2015.5.28.4:58 富田林市西板持町 上天溝(かみあもぞ)井堰

水の流れが止まり、時間も止まったように感じます。(画像の処理をしています。)

 

関連記事:

二上山からの日の出 ― 石川河川敷 3  掲載:2015.5.26. 撮影:2015.5.26.

二上山からの日の出 ― 石川河川敷 2 残念の巻 掲載:2015.5.23. 撮影:2015.5.23.

二上山からの日の出 - 石川河川敷 2015.5.22. 掲載:2015.5.22. 撮影:2015.5.22.

 

撮影日:2015.5月27日、28日

2015.5月29日 (HN:アブラコウモリH)

 

 

 

甚兵衛(じんべい)ものがたり

$
0
0

 *紹介文は、青い文字をお読みください。緑の文字は写真の説明文になります。

富田林市喜志地区の肥沃な田んぼ 掛け稲 後方は二上山

江戸時代に大阪市住之江区の多くの土地を干拓し、新田開発した加賀屋甚兵衛とその子孫たち。そこまでに至る道のりは決して平坦ではありませんでした。

 

【粟ケ池(あわがいけ)】富田林市粟ケ池町

古代成立の溜池と考えられます。水源は、7.3km上流の石川の水を荒前井堰から、途中4.8km上流で同じく石川より深溝(ふこうど)井堰からの井路と合流し、上流の各村々を潤しながら、引いてきています。記紀の記載から、仁徳・崇神天皇にその起源を当てる説がありますが、考古学資料(中野北遺跡発掘成果ほか)からは奈良時代の可能性と考えられます。石川左岸では、溜池灌漑も含め、江戸後期、荒前2500石、深溝3000石、粟ケ池(尺度まで)3000石、ざっと8500石の収量と考えられます。

この池は、櫻井をはじめ惣村(そうそん)喜志五郷(櫻井・川面(かわづら)・大深(おうけ)・宮・平(ひら)― 江戸期)を潤す命の水。肥沃な田んぼを潤します。条里地割が施工され、奈良時代から耕作されていました。すでに1100年以上、灌漑によりお米が作られているわけです。

流入水路は人工水路 深溝(ふこうど)井路一本なのに、出ていく水路(樋門)は各村7つもあります。しかも自然流入の河川は一本もありません。

大和川付け替え(1704)前は、王水川→平野川→第2寝屋川→淀川(大川)を流れ、安治川を経て、天保山より大阪湾に流れていました。

加賀屋甚兵衛は延宝八年(1680)河内国 石川郡 喜志村櫻井(さくらい)に、 山本善右衛門の次男として生まれました。南河内地方の粘り強い気質で、高潮や大洪水との苦闘を繰り返しながら、海へ海へと田んぼを拡げていった甚兵衛。

 

喜志付近の石川の流れ

喜志の川面(かわづら) 小ざいしょなれど 浦にどんどと 舟がつく

大和川付け替え前は石川を行き来する剣先船(けんさきふね)は26艘でありました。(元禄五年(1692)河内国絵図)この船は石川を経由して、京橋まで運航していました。

そして、付け替え(1704)後は、喜志の浜より難波橋まで、剣先船は七里半(30kmあまり)を運航していました。

「御廻米津出シ之儀、当村川岸迄大坂船通船仕候、当村之儀者村居五カ所ニ分リ居申し候ニ付、道法リ不同ニ御座候、凡平均八町此給費平均六分、喜志村浜ゟ大坂難波橋迄川路七里半...」(喜志村様子明細帳 明和六年(1769))

喜志を過ぎると、川の傾斜がすこし急になるのと、井堰数が増えます。よって、喜志村川面が最終の船着き場で、「大坂剣先船之儀、石川筋ハ喜志村領着仕候、是ゟ川上江ハ登不申候...」と同明細帳にあります。しかし、一時的には、富田林まで4艘の剣先船が上っていたという別の資料もあります。

剣先船は20石積で、3トンの荷物を積むことができました。船頭は前・後ろの2人乗り。基本的に物資運搬用。

大和川の堤防から朝日を望めば、金剛・葛城・二上の山並み。そして、この川が、ふるさと 櫻井につながっているという思い入れ。甚兵衛は石川の清き流れと故郷へのあこがれを忘れませんでした。

 

 【加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地)】 住之江区南加賀屋4-6-8

宝暦四年(1754)に初代加賀屋甚兵衛が新田開発の管理事務所と居宅を兼ねて設けました。総面積4822㎡の及ぶ邸内には、鳳鳴亭という数寄屋風の茶室や、小堀遠州流の築山林泉回遊式庭園があり、四季の移ろいが楽しめます。

かつては会所から井路を通じて十三間堀川へ、更に大和川・石川方面、また大坂の中心部まで船で行けたということです。

 

 

【 甚兵衛ものがたり 】

近世のすばらしい「 プロジェクトX 」、甚兵衛のその夢のあとさき...富田林市喜志の桜井と大阪市住之江区の加賀屋の地...ふたつのふるさとは、今も井路と川でつながっています。

 【註】・ものがたりの部分は「黒字」をお読みください。

    ・「緑字」は写真の解説になります。

 

富田林市桜井町一丁目 明尊寺 

帰命山と号す。文永十年(1273)了智坊の開創と伝えられる。真宗寺院としては中世(文明四年 1472)から次号を有した古い寺院で、蓮如の南河内地方の布教の伸長をたどることができます。 蓮如の裏書のある阿弥陀如来絵像の「方便法身尊像」があります。きっと甚兵衛も幼少の頃、両親に連れられお参りに来たり、境内で遊んでいたことでしょう。

加賀屋甚兵衛(後の櫻井甚兵衛)は延宝八年(1680)、河内国石川郡 喜志村櫻井に、山本善右衛門の次男として生まれました。元禄3年(1690)、11歳の時、大坂 淡路町一丁目 両替商 加賀屋嘉右衛門へ奉公しました。

 

明尊寺本堂の象? 象なのか獏(ばく)なのか?

嘉右衛門が元禄16年(1703)に亡くなり、幼少6歳の実子虎之介が家督を相続します。甚兵衛は24歳、中堅の手代にあたり、幼少の主人を助け、業に励んでいました。

 

美具久留御魂(みぐくるみたま、略して喜志の宮)神社の狛犬さんのひとりごと

「すんません。もう200年以上もここでお参りする方々をお迎えしてきた狛犬です。朝、日の出前から、そして暗くなっても、お家(うち)の心配事を相談に来てくれはる御主人や、娘さんの合格祈願に来てくれはる若い奥さんの祈る姿を見てきました。いつの時代でも、祈る気持ちは皆同じ...神さんにお参りする方々の心があるから、私らもここでこうして元気にお迎えしてますねん...これからも、平和な一日に感謝して、ありがとうの気持ちを大切にしましょ...」

その甲斐あって、正徳四年(1714)、甚兵衛35歳の時、「別家」を許されます。「別家」とは「のれん分け」のことで、奉公人がのれん分けを許されることを指します。(親族ののれん分けは、分家)

 

美具久留御魂神社からの二上山 日の出 2013.4.5.6:00

「太陽の道」にほど近い、二上山と美具久留御魂神社は、年に2回、太陽-二上山-鳥居-下拝殿が一直線状に並びます。

「太陽の道」=私の富田林百景+ 「 太陽の道 美具久留御魂神社 」2013.12.17.

その日は毎年、4月5日~7日と9月5日~7日ころです。

ところが、本家の嘉右衛門家にいろんな不幸が重なり、主人不在で、「欠所」となってしまいます。(欠所→主人が不在等の理由で、土地・財産を幕府・領主に没収されること。)この時、甚兵衛50歳。きっと、波瀾万丈の大変な時期であったとおもわれます。人生、たいがいだれでも一度はこういう時期があるのかもしれません。この時期あたりから、甚兵衛は思うことがあってか、新田開発に関心を持ち、苦難を克服しながら、新田開発をしていくことになります。

 

 

美具久留御魂神社の水盆

下拝殿右側に元禄六年(1693)のどっしりした水盆があります。甚兵衛が大阪淡路町の両替商に奉公に出てから、2年後に作られたことになります。すでに320年以上が経過しています。

ごらんのとおり、水盆の上部右寄りに、ポコンとした丸いへこみがありますが、これは盃状穴(はいじょうけつ)と言い、後で人為的に作られたものです。神社に参拝された時に確認してください。よく見ると、水盆の上部にそこらじゅう大小、浅深のいくつもの穴が開いているのがわかります。これらは、河内・泉州に多いのですが、神社やお寺の灯篭や水盆、またはそれに関係する石造物にそれが建てられたあと、民衆が人為的に開けたものです。江戸中期、後期の安産信仰や授かりものすべてを対象とした民間信仰かと思われます。

両手を合わせて、お祈りした手を、そのまま拡げて清水を受けるようにしてみてください。この形が盃状穴です。お水やお米を受ける、子供を授かる、この格好ですね。

江戸時代に若い既婚の女性が、だれにも見られないように、願いがかなうように、意思を通して石を穿(うが)った(下線の部分はシャレですのでよろしく)らしいのですが、誰も見た人がいません。なるほど、人に見られてはご利益(りやく)がなくなるとういうことですので、うなずけます。

ひょとして、甚兵衛さんなら真実をしっているかもしれません。現代の謎です。お近くの神社やお寺に行ってみてください。きっとありますよ...

新田開発事業を始めるきっかけとなったのは、甚兵衛が商用で堺への往復の道すがら、霞松原からみえる遠浅の海が新田開発に適していると見抜いたのがはじまりと思われます。

  

稲の花 2013.8.28.6:12

甚兵衛が初めて新田開発に携わったのは享保十三年(1728)に、開発途中の北島新田を買い取った時でありました。しかし当時、新田開発事業は資金や経営力が必要で、完成したとしても、洪水や高潮で大損害を被る、リスクの高い事業でした。

 

喜志の宮さん(富田林市喜志 宮地区)の田んぼ 2012.9.12.15:14

私のパソコンは「きしのみやさん(喜志の宮さん)」と打とうとすると、「喜志飲み屋さん」と変換する。

途中、資金難などで手放したり、買い戻したりと、紆余曲折がありましたが、少しずつ開発地を増やしていきました。

 

【美具久留御魂神社】大阪府富田林市宮町3丁目

 式内社 地元の方は喜志の宮さんと愛称を込めて呼んでいます。南河内郡千早赤坂村水分の建水分神社を上水分社と呼ぶに対し、下水分社(しもすいぶんのやしろ)とも呼んでいます。

歴史は古く、社伝によれば紀元前88年、崇神天皇の用命で創建されたと言われる由緒ある神社。水との関係が深く、江戸時代は「水分宮(みくまりぐう)」と呼ばれていたようです。地元の人が朝日が昇る前から、また夜遅くまで、よくお参りに来られていて、粟ケ池、深溝井路、喜志惣村形態、だんじり祭などと溶け込んで、一体感があります。

本殿の背後の山は、昔から神奈備山と呼ばれ、山そのものが御神体となっています。鎌倉時代末、鎌倉方が赤坂城を攻めたとき、西条城(喜志)と共に焼き払われたが、間もなく再建され、天正の頃には十七坊を有していたといいます。

戦国期の書状には、「下水分神境」や「下水分寺内」と書かれ、織田信長配下の柴田勝家らによる9通のの「禁制」が残っています。

 天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めの兵火を浴び、再び灰燼と帰したといいます。以後数十年間は復興されませんでしたが、万治元年(1658)から社殿の復興がはじまり、同三年にはほぼ元通りの姿を取り戻したようです。

 

【高砂神社】 大阪市住之江区北島三丁目14-12

甚兵衛が北島新田開発の際に、元文二年(1737)喜志村 美具久留御魂神社の水分神を勧請(かんじょう)し、高砂神社としました。 謡曲『高砂』の「・・・はや住之江に着きにけり...」に因み、高砂神社と名付けられました。勧請の時の神職は松原大蔵。喜志村 美具久留御魂神社の神職の方と思われます。天保六年(1835)火災で社殿を消失、四年後再建されました。この時、祭神は水分神・人丸大神・住吉大社の三柱。水にまつわるおみくじがあります。

その間、元文二年(1737)ふるさと喜志村櫻井の産土神である美具久留御魂(みぐくるみたま)神社の水分神を勧請(かんじょう)し、高砂神社を建立しました。

 

【高崎神社】大阪市住之江区南加賀屋四丁目15-3

宝暦五年(1755)甚兵衛は、喜志村 美具久留御魂神社の水分神を勧請(かんじょう)し、高崎神社としました。創建時は、大和川河口に祭られ、天保八年(1837)現在の地に移築して同時に天照大神・柿本人麻呂を合祀したとのことです。境内には、「力石」がいくつもあり、また「櫻井民次郎」の銘の石碑が見えます。勧請時の神職は松原氏で、当時、松原氏は富田林市喜志町(宮地区)の美具久留御魂神社の神職の方と思われます。。

北島新田の開発めどがついたのは、延享元年(1744)、その翌年(甚兵衛66歳)から、今度は加賀屋新田(南)(当時は、見立て新田とよぶ)の開発に着手、ここでも美具久留御魂神社の水分神を大和川河口に(現在の場所とは異なる)勧請し、宝暦五年(1755)、高崎神社としています。(天保八年1837現在地に移転)両神社は現在も、かつては茅渟の海であった甚兵衛の干拓地に鎮座しています。

 

2012.9.12. 16:22  富田林市南旭ヶ丘町 ため池のアオサギ

しかしながら、いつも人生は順風ばかりではありません。時には、思いもよらぬことが起きます。甚兵衛のもう一つの苦難は、両替商を任せていた婿養子が贅沢に流れ、借財で経営が傾き始めました。甚兵衛は延享四年(1747)に最終的に両替商をあきらめ、新田開発一本に絞ります。

 

【加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地)】 住之江区南加賀屋4-6-8

宝暦四年(1754)に初代加賀屋甚兵衛が新田開発の管理事務所と居宅を兼ねて設けました。小堀遠州流の築山林泉回遊式庭園があり、「愉園」と名づけられ大阪名園の一つになっています。
平成13年(2001)には、大阪市有形文化財・史跡に指定されています。

そして、この地に屋敷を建設(宝暦四年・1754・甚兵衛75歳)、翌年加賀屋新田会所とします。人生の最後を自分が開発したこの地で終わりたいという思いがあったのでしょう。宝暦五年(1755)は記念すべき年。高崎神社・加賀屋新田会所成立、そして加賀屋新田(南)完成。そして甚兵衛は、宝暦七年(1757)次の養子の利兵衛に家督を譲り、翌年剃髪し(円信となのる)、会所の隅に隠居します。

その数年後、83歳で天に召される...

 

 

富田林市喜志(桜井地区)界隈 明尊寺の前の通り 

一部古くからの伝統的な民家が残っています。

そして幕府よりその功績をたたえられ、苗字帯刀を許され、櫻井姓となります。この時、甚兵衛が「櫻井」姓を名乗ったのは、生まれ故郷の富田林市の喜志村櫻井に対する思いが強かったからに違いありません。鮎や鮭が自分のふるさとの川を忘れず帰るように、甚兵衛もきっとその思いが強かったのでしょう。今までの苦難を耐えてきた過去を振り返りながら...

 

大阪市住之江区南加賀屋四丁目 大和川堤防

大和川の阪堺大橋からは大和川の向こうにちょうど二上山がみえる。250年前に甚兵衛もきっと見ていたこの景色、故郷の思いは、それは高崎・高砂神社を歓請したこと、櫻井姓を名乗った事でもわかります。雄大な景色ですが、実家の前の井路がここまで続いていることを、感じていたに違いありません。

 

「遠くを見渡せば、ランドマーク 二上山が迎えてくれる。この川(大和川)は、故郷 櫻井につがっている。私の故郷の家の前の井路に桜花を散らせば、私の第二の故郷にその便りが届く。」 

 

初代甚兵衛が新田を開発したころは、洪水・高潮・資金難・両替商の閉鎖など、苦難の嵐でありました。二代目養子の利兵衛から、三代目・四代目甚兵衛、四代目の分家、西櫻井家祖 利兵衛に時代になると次第に開発面積も拡大し、新田経営も安定してきました。

加賀屋甚兵衛の墓 大阪市住之江区新北島二丁目1

南加賀屋霊園の真ん中あたりには、櫻井家一族のお墓がある。

・初代甚兵衛(円信)宝暦十二年(1762)、83歳

・三代目甚兵衛(永信)天保十五年(1844)、73歳

・四代目甚兵衛(淳信)、明治12年(1879)

・五代目甚兵衛(正信)、明治16年(1883)

・六代目甚兵衛(西信)、明治28年(1895)

・西櫻井家 利兵衛(了信)、明治16年(1883)

初代甚兵衛の墓はなぜか、小さい。

新北島1丁目の「南加賀屋霊園」に櫻井家の主たちが寄り添って眠っています。かつては茅渟の海であったこの地に立てば初代甚兵衛のふるさとの思いと苦労が思い起こされます。 

 

 

【桜井の井戸】富田林市桜井町ニ丁目 甚兵衛のふるさとの名所

江戸後期に刊行された「河内名所図会」(享和元年(1801)刊 秋里籬島著・丹羽桃蹊画)に記載されている喜志桜井の井戸。 今は水が濁り、ザリガニが遊んでいますが、この当時は、水が冷たく甘味であったために、「お茶」の水にと、遠方からも汲みに来たそうです。 弘法大師の井戸の伝承や、聖徳太子が馬に乗ってここを通った時に、馬が水をほしがり、太子が鞭で地面をたたくと、水が湧きだしたという伝承があります。

 

櫻井のだんじり  宮入りの帰り道。

美具久留御魂神社の秋祭りは、泉州・南河内では最も遅い10月第3週の日曜日にあり、、各町十数台の石川型だんじりが、神前で「仁輪加(俄、にわか芝居)」を、奉納します。それで、「櫻井」の俄(にわか)のメンバーのみなさんははちょんまげの格好をしています。

 

 

中央公民館 喜志分館講座「南河内再発見講座~喜志の歴史探訪~」の 「第7回 加賀屋甚兵衛の足跡 歴史散歩(2013.3.6.)」にて、館外学習をした時の行程地図です。

 

*この内容は中央公民館 喜志分館講座「南河内再発見講座~喜志の歴史探訪~」の 「第7回 加賀屋甚兵衛の足跡 歴史散歩(2013.3.6.)」においてお話した内容を、2015.5.27.富田林中央公民館講座「富田林百景+」館外学習「♪ 喜志地区 東部をめぐる ♪」にて、再度紹介したものです。

なお、写真および図版は、すべてオリジナルのものです。 

参考文献:・「敷津浦の歴史」 大阪市立敷津浦小学校 同PTA 1959

     ・「加賀屋甚兵衛物語」  八木滋  大阪人 2003 10月号より

     ・加賀屋新田会所跡 案内  住之江区役所

     ・「すみのえ探索記」 広報誌「さざんか」より 住之江区役所

 

2015.5月31日 (HN:アブラコウモリH)

 

瀧谷不動尊の大祭

$
0
0

大峰山の山伏、約100名が法螺貝をふきながら、近鉄瀧谷不動駅前の極楽寺から瀧谷不動尊の山上まで大パレードをしました。

堂内では僧侶たちが百万遍読経を繰り返していましたが、この日は特に暑かったので点火を見ずに帰りました。

 

 

 

唐川のホタル

$
0
0

 

2015.6.1. 22:49 大阪府南河内郡太子町大字山田  唐川流域

 桜の木にとまっていたヤツをパチリ!

 

 2015.6.1. 23:08 

ホタル保護条例があるんですね。

 

 2015.6.1.23:20 この看板、すこしいたずらされているかもしれません。

 

 うちの姉さんがホタルを描いてくれました。

 

 2014.6.13.20:32 河内長野市高向 石川上流のゲンジボタル

ここも150匹は、います。

 

 2015.6.1.22:47

すみません、もう1枚だけ撮らしてください。ホタルにとっては迷惑な話...

 

 すんません、わたしもだいぶ前に描いてみました。

クワガタとホタルは、甲虫類、同じ仲間です。

 

 2015.6.1. 23:21 歴史と文化と自然の町 南河内郡太子町山田

余談ですが、兵庫県揖保郡にも同じ地名があるんですよ!興味のある方は、次をクリックしてください。

太子町山田 2014.12.31.

 

*「飛んでるヤツは撮れへんなんだ。」と言ったら、「飛んでいるヤツ、取ったらあかんやんか!」と家内に怒られた...

今年は、ゲンジボタルもヒメホタルも、1週間近く早くピークを迎えていますので、お早い目に...

 関連記事 西除川のヒメボタル   2014.5.31.

撮影:2015.6.1.

2015.6月2日 (HN:アブラコウモリH)

 

二上山からの日の出 ― 石川河川敷 5

$
0
0

 

 2015.6.2.4:46 富田林市甲田二丁目 石川河川敷  カルガモ

 

 2015.6.1.4:59 カラス

 

2015.5.30.4:53 ダイサギ

 

2015.6.1.5:03 コサギ

 

2015.5.30.4:48 ダイサギ

 

2015.6.2.5:31 ムクドリ

 

2015.6.2.5:30 カルガモ

石川にはコチドリ、キジ、カワセミ、ケリ、ヒバリもいます。

 

2015.5.30.5:17 5月30日 日の出

 

2015.6.1.5:10  6月1日 日の出

 

2015.6.2.5:10 6月2日 日の出

 

2015.5.30.5:20

 

2015.6.2.4:55

 

関連記事:

二上山からの日の出 ― 石川河川敷 4  掲載:2015.5.29. 撮影:2015.5.27.28.

二上山からの日の出 ― 石川河川敷 3  掲載:2015.5.26. 撮影:2015.5.26.

二上山からの日の出 ― 石川河川敷 2 残念の巻 掲載:2015.5.23. 撮影:2015.5.23.

二上山からの日の出 - 石川河川敷 2015.5.22. 掲載:2015.5.22. 撮影:2015.5.22.

 

撮影日:2015.5月30日、6月1日、6月2日

2015.6月4日 (HN:アブラコウモリH)

 

高向のホタル

$
0
0

かわいい、お目目ぱっちりのゲンジボタルをご覧ください。

 

 2015.6.4.23:10 河内長野市高向(たこう) 石川上流 河川敷

触角がピンと張っていて、体に比して目がおおきいゲンジホタル。

 

 2015.6.4.23:17 会社帰りのため、到着が遅く、大半はもう草場の陰でお休みでした。

 

 2015.6.4.23:13 この周辺に150匹くらいいると思います。

 

 2015.6.4.22:22 顔のほとんどが目です。夜活動するので、目が発達したのでしょうか。

 

 2014.6.4. 23:17

 同じ河内長野市高向地区ですが、2009年に花の文化園前の石川で大発生し、150匹くらいのゲンジボタルが周辺の草むらより、立ち昇るように乱舞したことがあります。まるで映画の『火垂るの墓』のような景観でした。 残念ながら、周りの草が刈られ、翌年激減しました。その地点は、今年は5~10匹くらいの発生かとおもいます。

このように、周りの環境の少しの変化でも、活動範囲の狭い蛍にとっては大きな影響を及ぼすことがあります。

 

 

 この日のこの地点は150匹くらいいました。時間が遅いのと、気温が低い(16度くらい)ので、飛んでいるのは少なかったですが、川の近くの藪や草むらにたくさんいました。ここも現在護岸が整備されており、木陰や草むらが少なくなるのが懸念されます。

 

 2015.6.4.22:22 お目目が大きい。

 

 2015.6.4.23:09 よく観るとへんな顔。

 

 2015.6.4.21:58 6月3日が満月だったので、少し欠けています。月明かりがとても明るかったです。

 

 2015.6.4.23:14  成虫は1週間~10日の命だそうです。

 

 2015.6.4.23:10 水以外はほとんどなにも取らないそうで、幼虫の時の栄養で一生を終えるようです。はかない気もしますが、それがホタルの種を守るにあたっての、一番良い方法として淘汰されてきたと思われます。

 

 2015.6.4.23:05

 ☆今年は、ゲンジボタルも、1週間近く早くでてきています、お早い目に...ピークの期間は3日ほど。ピークを過ぎると激減します。これはホタルの短い寿命と、お互いにカップルを見つけにくくなるからでしょうか。

 

 2015.6.4.23:13

私の小さいときは、近くではもうホタルを見ることができませんでした。ホタルの舞う、かけがえのない環境を次世代に守っていきたいと願ってやみません。

 

☆川の近くの草むらは、マムシがいることがあります。長靴を履きましょう。

☆観察地点の近くには、居住されている住民の方がおられる場合もあります。マナーを守って、いい思い出が残るようにしましょう。

☆ホタルは、取らないで、撮るだけ。でも、ケイタイやデジカメではうまく撮れませんね。

 

 関連記事 西除川のヒメボタル   2014.5.31.

        唐川のホタル  2015.6.2.

撮影:2015.6.4.

2015.6月5日 (HN:アブラコウモリH)

 

公民館の講座メンバーで、富田林市喜志地区を歩きました。

$
0
0

スタートは近鉄長野線の喜志駅です。

この駅の乗降客数は富田林市内で一番多いそうです。

 

 

ここは正方位条里地割が残っているところです。

この一角で先の東日本大震災の時に生き残ったお米の種を分けて貰い岩手県大槌町奇跡の復興米として栽培されています(平成27年6月)。

 

四世紀頃に作られたと伝えられる粟ケ池は錦織地区の石川から水を引かれ、喜志地区の水田を潤しています。

この池を浚渫した土砂で池の周囲を埋め立てて粟ケ池共園として近隣周辺の人々の憩いの場として活用されています。

 

 

桜井町にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院明尊寺です、元々農繁期に近所の子どもを託児していて後に学校となり今の喜志小学校の前身だそうです。

その後リンデン保育園として幼児保育をされていましたが平成19年3月で閉園されました。

 

ここ川面町はかつて石川水運の船着き場として栄え今も立派な家が残っています。

また竹之内峠を目指した人が川を渡る事が出来ずにいた人の為の宿が今の河南橋のたもとに有ったそうです。

 

喜志町に有る真宗興正寺派寺院正信寺の門の上に太鼓がのせてありました。

こんなところに太鼓がのっているのは珍しいそうです。

喜志町はかつて大深と言い段丘の一段下がったところに集落が出来、大きい深い所に有ったところから大深と呼ばれたそうです。

昭和30年代頃にはこの地域を大深上、大深下と段丘の上と下の地域を呼び分けていました。

 

 

木戸山町に有る融通念仏宗極楽寺の前にお祀りされているのが神変行者大菩薩(役行者)です。

元は金剛山に祀られていたそうですが、明治の初めころにどなたかが川面に置いて行ったのを村人が迎え祀ったそうです。

お参りすると病気が良くなるとか、災難に遭わないなどのご利益があると言われ遠くからお礼参りに来られる人も有るそうです。

 

☆この記事は、富田林市中央公民館 「富田林百景+」の講座メンバーにより、館内講座中に作成しました☆

撮影:2015.5.27.ほか

2015.6月10日 (  HN:BUTABARA  )

 


じないまちの朝 2015.6月

$
0
0

 2015.6.10.4:55 富田林市富田林町 展望広場付近

ちょっと早起きして、朝日を見ようとじないまち東端の展望広場へ

 

  2015.6.10.4:55 

あれれ、二上山の山の形がちがう...

 

  2015.6.10.5:09

きのうの雨で、山が半分雲に隠れていました 。よく見ると大和盆地側から、竹内峠を越えて、雲が流れています。

 

  2015.6.10.5:26 富田林市富田林町 富田林じないまち

早朝のじないまちを散歩 時折、犬の散歩のひとが通るくらいで、落ち着いた風情の街

 

  2015.6.10.5:09

 

  2015.6.08.5:15. ふとんやさんの店先

菖蒲や紫陽花がいっぱい

 

  2015.6.08.5:01 じないまち交流館まえ

むかいのパン屋さんは、まだ暗いうちから、毎日パンを作っておられます。

 

 

  2015.6.08.5:20 富田林市本町 田中家住宅

おおきな壺が玄関に。

 

  2015.6.10.5:34 富田林市富田林町

早起きの柴犬

 

  2015.6.10.5:13 

早起きの猫

 

 2015.6.08. 5:01

じないまちのおおきな楠

 

  2015.6.10.5:22

街には四季の花が...

 

  2015.6.08.5:11

お家(うち)のみせさきにも、紫陽花が。

 

  2015.6.10.5:33

 落ち着いた感じのお休み処

 

  2015.6.10.5:21

 

  2015.6.10.5:32

 

  2015.6.08.5:09

 

 2015.6.08.5:19 富田林市本町 田中家住宅

 

 2015.6.10.4:59 富田林市富田林町

 

 2015.6.10.5:26 富田林市富田林町

富田林のじないまちの故 石上露子( いそのかみ つゆこ )(=杉山 タカ)さんの生誕祭が開催されています。

 

撮影:2015.6.8.& 10.

2015.6月11日 (HN:アブラコウモリH

下赤阪の棚田 6月

$
0
0

 2015.6.12.18:58 南河内郡千早赤阪村東阪 「下赤阪の棚田」

 

  2015.6.12.18:12 陰影の模様がきれいです。

 

  2015.6.12.18:58 日没まじかの棚田

このあと夕焼けが空全体に広がり、夕焼け雲が天空近くにあると、棚田が真っ赤に染まります。

 

 2015.6.12.18:16 今年も浮島が現れました。

 

 2015.6.12.18:20 日が沈むまで、手入れをされていました。

 

  2015.6.12.19:14 

日が沈み、夕焼け雲が赤みを増すと、田んぼにうつり込みます。残念ながら、この日は夕焼け雲は低い位置のみで、天空近くにはありませんでした。

撮影の チャンスは稲が成長するまでの2~3週間。6月中旬から下旬です。

 

 2015.6.12.18:53 過密状態の棚田の駐車場付近

この時期、棚田は晴れの夕方にはカメラマンでいっぱい。期間が限定されるのと天候が左右するので、条件が合うと撮影ポイントが混み合います。

 

 2015.6.12.18:54 シャッターチャンスを狙う、沈黙の時間

 

  2015.6.12.19:05 今日は日没も見れました。

 

  2015.6.12.19:04

条件は晴れの日ですが、快晴ではなく夕焼け雲が出ている方がうつり込みが良いようです。田んぼに反射した太陽光を撮るのであれば、この限りではありませんが。

 

撮影:2015.6月12日

2015.6月13日 (HN:アブラコウモリH )

 

ウー!

$
0
0

 

 

撮影:2015.6月12日 14:33 富田林市粟ケ池町 粟ケ池にて 川鵜(かわウー!)

2015.6月20日 (HN:アブラコウモリH )

ゾウとクワガタ

$
0
0

ゾウとクワガタがいる公園

そういえば、昨年の夏、この近くで100万年前のアケボノゾウの足跡化石が発見されました。

ここをクリック

関連記事:みつけたよ~!石川のゾウ・シカ足跡化石 2014.9.5.

 

      撮影:2015.6月14日 6:24

      富田林市若松町東一丁目3 若松町2号公園

     2015.6月21日 (HN:アブラコウモリH )

       

     

夏至の日の出

$
0
0

2015.6.22. 5:08

 

2015.6.22. 5:09

 

2015.6.22. 5:09

 

2015.6.22. 5:11

 

2015.6.22. 4:31

 

2015.6.22. 4:50

 

2015.6.22. 4:53

 

2015.6.22. 5:08

 

2015.6.22. 4:30

 

2015.6.22. 4:59

 

2015.6.22. 4:39

 

2015.6.22. 5:23

 

2015.6.22. 5:20

 

2015.6.22. 5:18

 

2015.6.22. 5:20

 

2015.6.22. 4:41

 

2015.6.22. 4:59

 

2015.6.22. 5:12

 

2015.6月22日 (HN:アブラコウモリH )

       

 

喜志 川面の剣先船 1

$
0
0

石川では江戸時代に、喜志の川面浜や古市の臥龍橋付近の浜から、「剣先船(けんさきふね)」という底の浅い川舟で近在で生産された物資、米・木綿・油・酒・材木などを運んでいたことをご存知ですか。( 絵はイメージです。)

大和川付け替え後は、大坂難波橋まで川路七里半、帰りは、塩・荒物・肥料などを運びました。

 

喜志の川面浜付近 遠くは二上山 現在西浦井堰ダムがあるので、淀みになっています。

 大和川を航行していた剣先船は300艘ほどあり、内 石川を行き来する船は26艘であったと記録に残っています。(元禄五年(1692))

そして、古市村に8艘、石川郡では18艘あったと記されています。

舟運は、鉄道や陸上交通の発達と川筋の土砂の堆積などで、明治になってしだいにすたれていき、明治十五年(1882)頃に廃絶しました。

 

剣先船は20石積で、約2.5~3トンの荷物が積めました。川船では中型船になります。淀川の三十石船が大きく、柏原船や高瀬舟はもっと小さいです。船頭は前・後ろの2名。基本的には物資専用船です。

 

 金毘羅大権現は、舟運や漁業の神様 船員の安全を守ります。この金毘羅夜燈は川面地区の街中の「老人いこいの家」の入口にあります。

富田林市周辺にも結構ありますね。興味のある方は、ここをクリックしてください。

 

 富田林市川面(かわづら)町界隈

川面浜(河南橋付近)からは約200mほど、河岸段丘崖を登り、崖の上に集落があります。(河岸段丘面)突き当りには伊勢燈籠(太神宮燈籠)が見えます。

 

 三連の大きな蔵もあります。

 

 安永七年(1778)の銘の太神宮燈籠。伊勢燈籠とも呼ばれ、江戸中期以降の「お伊勢参り」にかかわる燈籠です。

勝手に農民が旅行など行けない時代、この南河内地方では、庶民の唯一の楽しみは一生に一度「お伊勢さん」にお参りすることでした。講(=仲間、費用を積み立てて仲間どうし順番にお伊勢参りする集まりを伊勢講といいます。)をつくってお参りし、また60年一度の「おかげ年(伊勢神宮の式年遷宮は20年に一度、そのなかで60年に一度がおかげ年、直近は2014年。おかげ年には特にお伊勢参りやおかげ踊りが大流行したそうです。)」には「おかげ踊り」を踊って、太神宮燈籠を建てたりしました。

 

 火除けです。波(=水)を表しています。川面地区には特に多くありますが、なぜでしょうね?

 

 大和棟のお宅

瓦ぶきと茅葺の複合型の家屋です。江戸時代後期に、大和地方で入母屋の茅葺の防火の対する対策として考案され、南河内地方では、象徴的建物として建てられました。(南河内の江戸後期の家屋の基本は平入り厨子2階瓦葺・田の字型四間取りです。)

 

 〈画像をクリックしていただければ、拡大します。〉

 喜志川面浜へは、ご覧の東高野街道、いせ道などを通じて多くの物資が運ばれました。

 

 ☆近ぢか、続編をアップします。

関連記事:公民館の講座メンバーで、富田林市喜志地区を歩きました。 2015.6.10.(  HN:BUTABARA  )

2015.6月24日 (HN:アブラコウモリH )

 

喜志 川面浜の剣先船 2

$
0
0

 

石川流域から大坂 難波橋まで物資を運んだ剣先船(けんさきぶね)

とんがっていて、刀の切っ先みたいですね。

 

喜志村様子明細帳などに記載された、大坂剣先船の内容です。(画面をクリックしますと、拡大します。)

大消費地 大坂の中心部まで直接物資を運べる重要な舟運でした。

 

二上山からの日の出

当時の人も、日の出に手を合わせ、観ていたかもしれません。

 

石川の浪間に見え隠れする朝焼け

 

喜志 川面浜のすこし上流部

遠くに二上山を望みます。現在は井堰ができて、ダムのようになっています。

 

西浦井堰より河南橋を望む。

河南橋のたもと西詰(左側)かそのすこし下流部に船着場があったようですが、正確にはわかっていません。

 

 

【剣先船はなぜ富田林村まで着かなかったか?】

富田林寺内町は江戸時代に入り、在郷町として発展していきました。周りに農村地帯を控え、そこで生産されたもの、米・木綿・雑穀を集め、一部は加工して出荷するとともに、農村で必要なもの、農具・荒物・衣類・金肥などの物資をはじめ、各種のサービス(医者・髪結い・大工など)を提供していました。

では、なぜ剣先船は富田林まで運航しなかったのか、不思議です。

近在の農民もわざわざ年貢米を川面浜まで経費負担で運んでいたようです。(富田林市史第2巻 富田林市役所)

 

大和川支流の河川の傾斜図(青い部分が剣先船が就航した流域)(地図をクリックしますと、拡大します。)

ごらんのとおり、石川は大和川水系の他の河川より、傾斜が急です。

 

石川の高度変化と井堰数 1(地図をクリックしますと、拡大します。)

喜志 川面浜と富田林の中間の、サイクル橋~金剛大橋まで石川の傾斜が大きくなっているのがわかりますね。

 

石川の高度変化と井堰数 2 (地図をクリックしますと、拡大します。)

井堰数:大和川~古市村 臥龍橋 3か所

     古市~河南橋(川面浜) 5か所

     河南橋(川面浜)~金剛大橋(富田林村) 4か所

さらに井堰数も、古市~富田林間は多くなっています。

つまり、自然条件だけ考えれば、古市さらに川面浜、富田林村と中流域を上っていくに従って、条件は厳しくなるようです。

そして太子・河南町方面からの物資、菜種油や木綿を運ぶ重要性も川面浜にはありますので、ほとんどの剣先船がここまでの運行であったようです。

 

またひとつ、疑問が残るのですが、現在井堰はたいがいコンクリート堰かゴム引布製起伏堰ですので川船は通れません。

では、当時どのようにして船を通していたのでしょうか。次の絵をご覧ください。

旧藤崎井堰 明治23年(1890)の井堰絵図 

蛇籠とは、竹や藤づる、鉄線などを丸く長軸に編み、中に河原石や砕石を詰めたもので、河川の堤防を補強したり、本流から取水する農業用水の堰などに利用されてきました。その形が蛇に似ていることから蛇籠と名づけられています。日本にいつ頃伝来したかは明らかではありませんが、『古事記』にも登場するほど長い歴史があり、近世には大いに使用されました。

江戸時代には、喜志・中野・新堂・富田林村の東部の河岸段丘崖にはたくさん竹藪がありました。おそらく、それを利用して蛇籠を作ったのではないでしょうか。

そして、農業用水が必要な春から秋口にかけて、蛇籠で井堰を築き取水し、秋・冬は蛇籠を取り外して、川船が通船できるようにしたと思われます。これにより、農閑期を利用して、できた米や農産物を運んでいたようです。実に合理的ですね。

 

羽曳野市古市の舟板を腰板に利用した民家

 

舟釘の模様がとてもきれいな舟板

 

(地図をクリックしますと、拡大します。)

館外学習では喜志五郷(現七郷)(今回は4つの地区)を巡る中で、川面地区も訪問しました。

農業と舟運で栄えた街並みを見学しました。

 

 

 浄土真宗 大谷派 光明山 金光寺

川面町内のお寺です。

 

厨子(つし=低い屋根)二階の伝統的な建築の民家ですね。

道路に面した木の囲いは「駒寄せ」といいます。また、2階部分の窓は、「虫籠(むしこ)窓」、1階部分の格子窓は、「連子格子(れんじこうし)」。

 

 安永七年(1778)の太神宮灯籠

街角にさりげなく建っています。

 

 茅葺の大和棟

 

 二上山からの日の出

 

 だんじりの提灯飾り

喜志の宮(美具久留御魂神社)さんの秋祭りは大阪府でも、一番遅い10月の第3金~日曜日にあります。

 

関連記事:喜志 川面の剣先船 1 2015.6.24.

2015.6月25日 (HN:アブラコウモリH ) 

 


喜志 川面浜の剣先船 3

$
0
0

剣先船は直接大都市 大坂まで行き来し、多くの物資を運びました。しかしながら、通年運航していたわけではありません。田植えのころから、稲刈りの前まで、田んぼに水が必要な時期は、蛇籠で井堰が川筋をふさぎますので、船が通れません。よって、春の彼岸から秋の彼岸までは、剣先船はお休みであったようです。

剣先船は縦に細長く、船底が平らですので、石川筋をどんどんさかのぼって行きました。

上りは水をだきますので、たくさん積めますが、下るときは 底がつかえやすく少ししか積めなかったようです。

江戸時代は、現在よりも田畑や緑が多く、上流にダムもありませんから、通常時に流れる水量が多く、剣先船は喜志村 川面浜まで航行していました。水量が少なくなると綱で引いたりもし、川ざらえもしました。

そして、一部の剣先船は富田林村まで航行していたようです。天保十三年(1842)石川筋支配の堺奉行が4艘の剣先船の富田林村への航行を許可しています。

 

明治31年(1898)以降 柏原~富田林駅間を走ったとおもわれる蒸気機関車河陽鉄道→河南鉄道時代(現近鉄)

近鉄 長野線の歴史は、ここを クリックしてください。

長い歴史を持った剣先船も明治になって陸上の交通機関が発達するにつれて、しだいに航行されなくなってきました。そして明治15年ころには自然に廃絶してしまいました。代って、 陸路とその後、鉄道に代られることになります。

富田林駅における貨車の積み出し風景 

富田林名産の河内一寸空豆の種を出荷しています。時代は昭和の初め頃か。(大鉄時代、現近鉄) 現在の 富田林駅での折り返し退避線に種子倉庫があり、そこから積み出していました。

 

 粟ケ池

喜志村の南端にある大きなため池です。広さは6.6ヘクタール。南北約400m。東西約150m。日本書紀の仁徳天皇の条の、和邇(わに)池に比定されているくらい古くからあるため池です。

考古学的には、

①「中野北遺跡」において、池の東側を南北にある溝から奈良時代の土器が出土していること。

② 粟ケ池の灌漑に起因する正方位条理地割が8世紀中頃と考えられること。

③ 流入する河川がなく、この池の用水は池の西側の比高の高いところを流れる人工水路の深溝(ふこうど)井路のみに頼っていること。

→流入する河川がない理由は、粟ケ池の上流部の中野地区には、この中位段丘面を横切る東西に浅い谷があり、上流の自然水および井路はこの谷に沿って東のほうにに流れるため。

④ 粟ケ池が溜池として存在し得る要因の深溝井路は上流部の谷川遺跡で奈良時代の遺構が見つかっていること。

などから考え合わせて、粟ケ池は奈良時代に成立していたと考えられます。

 

 粟ケ池の灌漑エリア、喜志の美田

不思議なのは、流入する井路は1本なのに、出て行く樋門は7か所もあることです。しかも、自然に流入する河川は、一つもありません。

このことは、何を意味しているのでしょうか。

 

(地図をクリックしますと、拡大します。)

 ごらんのように、粟ケ池の下流部を取り囲むように喜志七郷(現在)が存在します。そして、江戸時代、川面地区のように農業と水運という二本柱の地区は例外的で、ほとんどは農業に依存しています。

このことから、共有している粟ケ池の灌漑用水としての重要性がわかります。

 

(地図をクリックしますと、拡大します。)

 5月27日 中央公民館市民講座 「富田林百景+(プラス)」のメンバーは、喜志五郷(現在七郷)の内、東部の桜井・川面・大深(おうけ)・木戸山地区を巡りました。

井路(人工の灌漑水路)に注目してください。

石川上流部7.3kmの荒前井堰と4.8kmの深溝井堰からの水が粟ケ池にいったんプールされ、宮・平地区を除く北部・東部の各地区に流れるように井路が作られていることがわかります。

 

(図面をクリックしますと、拡大します。)

 粟ケ池共園(粟ケ池の堤防の東端にある公園)にある案内板の水路図(部分)

写真入りで非常にわかり易く灌漑水路網を説明されています。井路(水路)を通して、喜志の各村の田んぼに灌漑用水がくまなく配られていることがよく解ります。

宮地区は粟ケ池からでなく深溝井路とその延長の井路から、平地区は、辰池・喜志新池方面から、喜志新家地区は粟ケ池と辰池・喜志新池の両方の井路から水を取り込んでいます。

 

 式内社 美具久留御魂(みぐくるみたま)神社 地元の方は、喜志の宮さんと親しみを込めて、そう呼んでいます。

 粟ケ池や井路で結びついた喜志七郷および毛人谷(えびたに)、富田林、新堂、中野、そして羽曳野市 尺度の産土神として、粟ケ池の西500mに鎮座します。

歴史は古く、社伝によれば紀元前88年、崇神天皇の用命で創建されたと言われる由緒ある神社。水との関係が深く、江戸時代は「水分宮(みくまりぐう)」と呼ばれていたようです。粟ケ池、深溝井路、だんじり祭などと溶け込んで、一体感があります。泉州・南河内では最も遅い10月第3週の日曜日のだんじり祭りでは、各町十数台の石川型だんじりが神前で「仁輪加(にわか芝居)」を、奉納します。

 

日の出前から参拝に来られる方が、多くおられます。「太陽の道」近くに位置し、二上山、粟が池、喜志の宮さんが一直線にならんでいます。4月6日と9月6日の年2回、二上山の中央から、喜志の宮さんの鳥居越しに、昇り太陽が見られます。

「太陽の道」については、ここをクリックしてください。

 

 川面地区のだんじり提灯

各地区 だんじりを所持。喜志村としては7台もあります。江戸時代は五郷でしたが、庄屋さんも各地区ひとり、よって喜志村としては5人も庄屋さんがいました。

 

 秋のだんじり祭りには、喜志七郷を始め、近在の村々だんじりが十数台宮入りします。すべて、深溝井路にかかわる村です。

 

 粟ケ池のコシアキトンボ

やはり、水は命の糧であります。江戸時代になって、戦がない、平和な世の中になったこと。そして、農業の生産性が向上したこと。それに伴い、水や肥料はさらに必要になったこと。

水不足になると、水争いが頻繁に起こるようになってきました。各村ではため池や井堰を増やし、用水の確保をしましたが、水争いも頻繁に起こるようになりました。

 

 肥沃な喜志の田んぼ

 喜志村の場合は利益を同じくする7つの地区が、深溝井路と粟ケ池の水利をめぐり仲良く結びつき、江戸時代2000石を超える大きなひとつの村として成長しました。これを、惣村(そうそん)といいます。

 

 かつてはあちこちで栽培されてました、喜志名産の河内一寸空豆 残念ながら、現在はほとんど栽培されていません。

各地区にそれぞれ庄屋さんはいましたが、いろんなことを決めるにあたっても、約束事をつくり、合議制で決めていたようです。

 

 喜志 川面浜

互いに各地区の利益をまもるため、その絆を深くしていって、結びつき、惣としてまとまったわけです。それが喜志村であり、その一つ一つの地区を「郷」と呼んでいます。

 

 雨の日の粟ケ池 向こうは金剛山

 「絆」で「結」べば、「惣」となる。

 

関連記事:

 喜志 川面浜の剣先船 1 2015.6.24.

 喜志 川面浜の剣先船 2 2015.6.25.

参考文献:「富田林市史 第2巻 」 富田林市役所 H10.2.(1998)

     「郷土史の研究 」 南河内郡東部教育会 T15.6.(1926)

     「郷土のすがた 喜志 」 富田林市立喜志小学校 S48.2.(1973)

2015.6月25日 (HN:アブラコウモリH)

路傍の石 - 富田林じない町

$
0
0

 路傍の石 1

富田林市富田林町 民家の「犬走り」に集団で活躍する「路傍の石」群

 

 路傍の石 2

 城之門筋

 

 路傍の石 3

 丸い

 

 路傍の石 4 富田林市本町

 

 

 路傍の石 5 向田坂付近

「くわへきせる無用」の有名な道標

 

 路傍の石 6

橋本家住宅のユニークな駒つなぎ ここはかつてお酒を造っておられました。

 

 路傍の石 7

 重要文化財 旧杉山家住宅にて 唐臼の石臼の部分(右)と棒の支点のこわれたやつ 支点はよくこわれるようで、街のほかにもいくつかあります。

たぶん、杉山家が酒造りをしていたことから、精米するときに使用したとおもわれます。 

 

 路傍の石 8 勝間家住宅

町のあてまげの角や「犬はしり」に丸石をおくのは、富田林じない町の特徴であると思います。

そして、その多くは直径50cm位の花崗岩で、ちょうど石川や千早川の中上流部にゴロゴロしているのを利用しているのではないかと思われます。

 

 路傍の石 9

石臼の再利用

 

 路傍の石 10

こんな丸いのもあります。じないまち 交流館にて

 

 路傍の石 11

いつのまにか、鋳物のポストもやってきました。

 

 路傍の石 12

京風犬矢来(手前)と駒寄せ

 

 路傍の石 13

おもしろい「這(は)い上がり石」

 

 路傍の石 14

 

 路傍の石 15

丸い...

 

  路傍の石 16

 丸い、丸い...

 

  路傍の石 17

丸い。

 

  路傍の石 18

こんな丸い石が、川原にころがっているのでしょうか。

 

  路傍の石 19

なんか「力石」のような...田舎相撲の力士や村の青年が力だめし?

 

  路傍の石 20 富田林市本町

じない町の周辺(外)ですが、なぜかあてまげになってます。その角にも「路傍の石」

 

  路傍の石 21

 「駒つなぎ」と言われています。 実用OR飾り? 形状からして比較的新しいものでは?

 

  路傍の石 22

これでは犬も走れない。

 

  路傍の石 23

手前は、唐臼の支柱

 

  路傍の石 24

 じない町のメインストリート 城之門筋

 

  路傍の石 25

この街は、石が似合いますね。

 

 あなたはどの「路傍の石」がいいですか?

もっともっと活躍する「路傍の石」があります。よかったら、富田林じない町にお越しください。

関連記事:

 じないまちのカモフラ 2014.8.24.

 寺内町の牛乳箱 2014.8.10.

 

 

 私の家にもあります。草におおわれてしまいましたが...

2015.6月28日 (HN:アブラコウモリH)

 

ラベンダー畑 ― 和泉リサイクル環境公園

$
0
0

一面ラベンダー畑で、向こうの端が見えません。

 

蝶やミツバチがいっぱいです。

 

梅雨空の合間に、日が射しました。

 

..で、虫たちもいっぱいやってきました。

 

小高い丘陵の上あたり。

 

ミツバチの羽音が、うるさいくらいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和泉山脈、岩湧山が見えます。

 

和泉市納花町 和泉リサイクル環境公園

撮影:2015.7月3日

2015.7月4日 (HN:アブラコウモリH)

 

 

 

河内一寸空豆  1

$
0
0

 うちの親は「 おたふくまめ 」と呼んでいました。豆の形がしもぶくれでふっくら「おたふく」に似ているからでしょうか?ほかに、そら豆とか、かいこ豆とかよんでいます。空(そら)豆は、「 サヤが空に向かって伸びるように生える 」からでしょうし、蚕(かいこ)豆は「サヤがカイコの幼虫形に似ている」からだと思われます。江戸時代の書物では蚕豆とかそら豆と呼んでいます。大阪近辺では、ほとんど養蚕はされていませんので、この辺ではあまり蚕豆とは呼ばないようです。

 

〈画像をクリックすると拡大します。〉

 大阪は江戸時代「天下の台所」と呼ばれたように、古くから食文化が栄え、その食文化を支える大阪独特の野菜が多数ありました。

しかし、戦後、農産物の生産性を上げるための品種改良や農地の宅地化、食生活の洋風化が進み地域独特の歴史や伝統を有する品種が次々に店頭から消えていきました。

近年、こうした伝統ある野菜を見直そうという機運が高まり、昔ながらの野菜を再び味わってもらえるよう、大阪府、大阪市 をはじめ、各市町村の方々が、伝統的な「なにわの伝統野菜」の発掘と復活に取り組まれています。

 

〈画像をクリックすると拡大します。〉

「なにわの伝統野菜」

 大阪府で17種類(大阪市8種類含む)があります。

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

 

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

 スーパーや八百屋さんに並んでいる、「うすいえんどう」は、実は富田林から程近い、羽曳野市碓井地区が最初に栽培されたところだったんですね。今は和歌山産が有名ですけど...

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉 

上の写真は富田林市西板持の石川右岸の畑です。水田耕作も可能ですが、千両ナスやキュウリの大産地です。

今も富田林市の石川右岸や河南町でよく栽培されている里芋 石川早生。その名の由来は、石川(旧石川村(現河南町)、旧石川郡、石川)にあったんですね。

里芋の品種では非常にメジャーな品種ですが、残念ながら「なにわの伝統野菜」には、選定されていません。

 

  〈画像をクリックすると拡大します。〉

私の記憶では、50年ほど前は、田んぼの米の裏作としてよく見かけました。今は出荷目的で栽培されているのをあまり見かけません。

河内一寸空豆は、現在生産量が少なく、残念ながら「なにわの伝統野菜」には、選定されていません。

 

 かつての河内一寸空豆の大産地、喜志地区の上手(かみて)には粟ケ池があります。

粟ケ池の水は石川上流部の荒前井堰(7.3km上流)と深溝(ふこうど)井堰(4.8km上流)から、人工の水路を通してやってきます。池の起源は伝承では日本書紀の仁徳天皇の条にある和邇池にあたると言われ、考古学的にも奈良時代には築造されていたようです。粟ケ池の水は石川の水なんです。

 

 喜志地区の田んぼ

深溝井路や粟が池の流域の田んぼは肥沃でよく実ります。しかも粘土質で、当時河内一寸空豆の栽培には土壌が適当でした。よって、喜志地区の米の裏作として昭和期には大産地を構成していました。現在は、嗜好も変わり、ほとんど作られなくなりました。〈地図

 

 喜志新家地区の掛稲

 かつての二毛作地帯で、裏作として、そら豆や裸麦(大麦の一種)、菜種などを植えていました。(昭和28年の資料より)

粘質土壌を好み、砂質の土壌は適さない。収量も大きく違うそうです。

 

 敷きわらを敷いてもらって冬を越すそら豆  寒さに強く、雪が降っても、霜が降りても元気です。

冷涼な気候を好む作物で、幼植物の耐寒性は強く、かなりの低温に耐えられます。よって、大阪では、二毛作の裏作として、冬場も育つ作物として作られてきました。しかし、多くの土壌水分を必要とするので、乾燥の被害を受けやすいようです。ソラマメは根の酸素要求量が多いので、過湿は厳禁。特に、水田裏作では、排水対策を十分に注意して、畝をふわっとしてやるといいようです。

 

空豆はすでに奈良時代に中国から伝えられていたようです。

ソラマメの原産地は、一般的に中央アジア~地中海沿岸地方とされています。紀元前5000年ごろ、チグリス・ユーフラテス川流域で栽培の形跡が確認されています。また、エジプトでは4000年前から栽培されており、ピラミッドからそら豆が発見されています。わが国へは、奈良時代の聖武天皇のころにインドの僧が中国を経て伝え、僧 行基にそら豆を贈り、兵庫県武庫村で試作したと伝えられています。明治時代に欧米系の品種が多数導入されました。

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

江戸前期には、蚕豆(かいこまめ)とか空豆(そらまめ)とか呼ばれていたようです。

 

 昭和30~40年ごろ、よく親が買ってきたのか、もらってきたのかわかりませんが、たくさんの河内一寸空豆が家(うち)の土間にドーンと置いてありました。早く食べないと豆がすぐ固くなるので、さっそく皮むきをさせられました。さやに2個しか入ってないので結構時間がかかるんです。山のようにあったそら豆のさやも、中身はちょっと(少し)...さやをむくとでっかい3センチもあるうす緑のそら豆が「おはぐろ(背の黒い部分)」を着けて出てきます。

その日の晩は決まってそらまめの醤油煮です。これがきらいやった。なんかエグ味があって、皮がかたくて、子供の口にはおっきすぎる。農家に生まれなくてよかったと小学生ながら、真剣にそう思いました。(農家なら、毎日食べさせられる。収穫期間が短いし...スイカの時期は、農家はええなとも思いましたけど...)

 

2015.7月4日 (HN:アブラコウモリH)

 

河内一寸空豆  2

$
0
0

 

 河内一寸空豆の花。花は白色で、黒い目玉があります。 

 

 

 さやは太く短く、ふっくらボリウムがあり、中に「おはぐろ」のついた3cmくらい(一寸)の大きな実がなります。さやに入っている豆の数は基本2個です。

 ☆〈上の表〉平成21年(2009)の農業統計では、富田林市が結構いろんな作物を作付しているのがわかりますね。南河内地方ではトップではないですか!千両ナスやキュウリは有名ですが、トマトや大根、白菜、玉ねぎも結構作っていますね。もちろんそら豆もトップです。

 ☆〈下の表〉昭和25年(1950)においては、二毛作の裏作として裸麦(大麦に一種)が圧倒的の多いのがわかります。押麦にして、お米に混ぜていただきましたね。ご飯が炊けたら、押麦が表面にたまるので、これを重点的にしゃもじですくっていただきました。裸麦は麦茶やはったい粉にも加工され、はったい粉は口に含んで、当時流行っていたゴジラの光線のように、口からパァ~ッと出して、ふざけて遊んでいました。

次に裏作としては、エンドウやそら豆、小麦が多いのがわかります。

 喜志七郷は今も農産物の大産地ですが、昭和28年(1953)においても、特にエンドウ、そら豆(=蚕豆)の大産地であったようです。

喜志地区の中では、大深、宮、桜井地区の生産が多かったのがわかります。

 

 

 雪でも霜でもガンバル。

 

 2012.12.19. 12月でもガンバルそら豆

 

昭和10年(1935)の大阪府の資料より

戦前に「本場 河内一寸蚕豆 種子」として、関東方面に出荷していたのがわかります。

 

 

 粟ケ池下流部の鷺(さぎ)

 河内一寸空豆はこの周辺で多く作られていました。

 

 粟ケ池の川鵜

 

 粟ケ池 喜志七郷北部・北東部の田んぼをを潤します。

 

 辰池 喜志七郷のうち、平、喜志新家地区を潤します。

辰池は谷池になっており、上手(かみて)から、七回り池→ウサイ池→喜志新池→星ケ池→辰池と縦に並んでいます。

 

 富田林市の種苗店の出荷倉庫:倉庫は富田林駅の引き込み線の横にありました。選別と燻蒸をして、貨車に積み込みます。一番よく出荷していたのは、昭和のはじめ。大阪鉄道(通称大鉄、現近鉄)の時代。 阿倍野に大鉄百貨店(現 近鉄百貨店阿倍野店ができた時代でした。(S12年、1937)

当時、二硫化炭素で燻蒸しマメゾウムシを駆除。この出荷倉庫で、駆除をしていました。駆除があまいとゾウムシが豆を食い、ダニも発生し、駆除が強すぎると、種の出芽率が落ちます。燻蒸は要注意。

 

 富田林駅より貨車に乗せて関東方面(千葉・茨城)に出荷します。この写真は、当時 この商店の絵ハガキになっていたもの。近鉄 富田林駅もこんな時代があったのですね。関東への出荷は戦後しばらく続きました。

 昭和の初めから戦前までがもっとも、「河内一寸そら豆」が華やいだ時代。

 

 【今回わかったこと】

 河内一寸空豆が継続的に、大量に出荷された理由

『河内一寸蚕豆は他の蚕豆と一番大きな違いは、他の蚕豆も多少は連作すると退化現象を表しますが、河内一寸は他の土地で取り返しの種子を使うとF1(註1)と同じような現象を表し、大阪以外の土地で栽培しますと2年目以降は甚だしい退化を表し粒径が小さくなります。...(そのため)関東地方で稲の裏作として栽培されていましたので毎年種子が必要とされ、F1でないのに種子の自家で種を取ることができず長年にわたり関西から大量に供給されていました。』(参照:季刊 大阪「食」文化専門誌「浮瀬(うかむせ) 」H17.3.1.号(2005.No.8) 浪速魚菜の会事務局)

F1:雑種一代植物(動物)のこと。FIは両親の良いところをあわせもっている場合が多い。品質が良い。病気に強い。収量が多いなど。

つまり、普通の農産物は、その作物を栽培し収穫しながら、来年の蒔く種も自家で残しておくのですが、河内一寸空豆の特徴で自家で収穫した種を植えても、本来の河内一寸のような大きな豆には成長せず、また収穫も少なかったそうです。つまり、自家で次の種を作ることができず、毎年種が必要であったため、大量に作付している関東方面に種の出荷が継続されたということだそうです。

そういうことって、あるんですね。

 

 関連記事: 河内一寸空豆  1 2015.7.4.

2015.7月4日 (HN:アブラコウモリH)

 

 

Viewing all 2690 articles
Browse latest View live