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Channel: 富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」
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三宝あじさいまつり

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 2018年6月5日 15:46 堺市堺区松屋大和川通4丁147-1 三宝水再生センター

わたしの一番のお気に入りはこれ!

ひとつの花でも色の微妙な変化があって、楽しいです。いきいきしていて、弾んでいるようで、元気をもらいました。

 

 華麗で上品なあじさい

 

 ガクの色が黄色とうすむらさき、あかむらさきできれいです。

 

 「どっちが主役?」

 

 「どっちも主役!」

 

 たのしそうな園児さん

 

 みんなでパチリ!

 

 車もあじさいも色とりどり

 

 いろの微妙な変化が素晴らしい。

再生水で育てているので、ややピンクぽくなるのでしょうか。(再生水は弱アルカリ)

 

 「真一文字」に並んだ花の背比べ

「オレの方が少し高いぞ...」

 

 これからパカッと開きます。

 

 まるで宝石のようなガクあじさいの花

 

 梅雨の時期の風物詩。梅雨入りしてしまいました。

 

 花火のような煌(きら)びやかさ

 

上品さと落ち着きのあるほんあじさい 

 

 いろとりどりのあじさい

 

 どの花も生き生きしています。

 

 ちいちゃいのに周りの大きなあじさいに負けぬくらい咲いたあじさい

 

 一輪だけど元気いっぱい

 

 もう少しがんばりましょうはなまる デコメ絵文字

 

 来年がんばりましょうはなまる デコメ絵文字

 

 あじさいまつりはここですよ!

ブログ:http://water.city.sakai.lg.jp/about/torikumi/kouhou/event/1526606558169.html

地図:https://www.openstreetmap.org/note/1418064

 

 ほんとにきれいで、元気をもらいました。

 

 場所は代わり、自宅の玄関。 2018.6.6. 0:38 富田林市本町

ここにも、あじさい。

 

 「わたしの服にもあじさい。」

 

 並んでお迎えします。「あじさい イラ...」の画像検索結果

関連記事:梅の花 デコメ絵文字 荒山公園の梅 2016.2.22.

              「ツツジ イラス...」の画像検索結果つつじまつり-浅香山配水場 2016.5.4.

              「花菖蒲 イラス...」の画像検索結果 白鷺公園の花菖蒲 2018.6.1.

撮影日:2018年6月5日 

2018年6月7日 ( HN:アブラコウモリH )

 


奥の谷の田植え

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6月9日、当日は梅雨時期であるが、夏日の暑い日であった。「富田林の自然を守る市民運動協議会」(富田林の自然を守る会)主催、親子で楽しめる行事として、奥の谷(里山)で「田植え」が開催されました。総勢約50名の親子・孫連れが参加され、守る会のスタップの指導のもと、泥んこになりながら、田植えが無事終わりました。
その様子を紹介します。

4月22日 苗床を準備し、大雨等いろいろと苦難が有ったが、何とか苗が成長しました。

スタッフの田植え準備。

親子、孫連れの参加者が里山に集合。

スタッフの挨拶、田植えの説明。

10時過ぎより12時まで、膝まで沈む田んぼで、泥んこになりながら無事終了しました。

スタッフが、里山で収穫したお米を、薪のかまどで4升のご飯、60人分のカレーを準備。

美味しそうに、おかわりしながら完食されました。

一部の方は、帰路、他のところに移動されたが、田植えが終わった田んぼを背景に記念撮影。

なお、写真の公開は了解を得ております。   2018.06.09 kusu

 

 

 

 

ここどこでしょう?駅から見える風景 2

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まっすぐむこうに二上山が見える駅。ここどこでしょう。

〈解答は画面をクリックしてください〉

電車 デコメ絵文字 ここどこでしょう?駅から見える風景 1 2018.5.31.

撮影日:2018年6月8日 

2018年6月10日 ( HN:アブラコウモリH )

 

「百景」受講の皆様へ:明日の館外学習、実施いたします。

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2018年度「富田林百景」受講の皆様へ

明日の第1回館外学習会は、朝のうちは雨が残るようですが、天気は回復傾向のようですので決行させていただきます。

中央公民館:午前9時、近鉄富田林駅9時17分発河内長野行き、南海高野線河内長野駅9時33分発難波行き普通、金剛駅9時40分発、中百舌鳥駅着9時56分着のいずれかにご集合願います。

猛暑が予測されます。飲み物、日焼け止めクリーム、帽子などの防暑対策をお願いいたします。また場所により蚊が多いかも知れませんので防虫スプレーなどご準備された方が良いかも知れません。

※傷害保険に加入申請された方は30円×8回分=240円を釣り銭のないようご準備ください。

(公民館、t_yos103 記)

西除川のヒメボタル 2014.5.(最後に現在の状況あり)

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 大阪狭山市のヒメボタルはちょうど今の時期、その数多いときで350匹。6月5日頃までが最大のピークとなります。河内長野市のゲンジボタルの少し先だって発生するこの辺では珍しいヒメボタルです。

 

 ヒメボタルの写真はとても難しいです。、もうすでに7年くらい毎年見学していますが、一度としてヒメボタルの写真が撮れたためしがありません。この写真は、2009年に大発生した河内長野市高向 花の文化園付近のゲンジボタルです。

 

2014.5.28.  21:12大阪狭山市東茱萸木3丁目 西除川旧河川敷にて

これはヒメボタル。この日は110匹の観察数と、保護管理されている「狭山ヒメボタルを守る会」のボランティアの皆さんが話されていました。

 

 2014.5.28.  21:12 大阪狭山市東茱萸木3丁目 西除川旧河川敷にて

大阪狭山市のヒメボタルは、平成7年(1995)に発見されました。ボランティアの皆さんや富田林土木事務所などの協力もあって次第にその数が増え、、2011.6.4.には500匹以上が観察されました。

 

 ヒメボタルは、大阪府レッドデーターブック準絶滅危惧種に指定されている貴重なホタルです。 ヒメボタルは、ゲンジボタルやヘイケホタルと異なり、陸生で幼虫は竹薮や森の落ち葉の中でカタツムリの仲間のキセルガイやオカチョウジガイ食べて生育します。

メスは後翅が退化し飛ぶことができず、行動範囲が限られているので、生活環境が破壊されると絶滅し再生は不可能となります。

 石川水系は上流部の河内長野でゲンジボタルがたくさんいますが、なぜか西除川(天野川)水系はゲンジボタルがほとんどいなくて、ここ大阪狭山市にヒメボタルが生息しています。おもしろいですね。

 

  2011.6.14.22:11 河内長野市高向 大阪府立 花の文化園付近

 これは、ゲンジボタルです。

 

 2007.6.12. 17:18 大阪狭山市東茱萸木3丁目 西除川旧河川敷にて

ヒメボタル生息環境 竹藪や雑木の木陰がある、湿気のある小川のほとりが住みやすいみたいです。ここは蛇行した旧西除川の流路跡です。現在この地点では、新たに別にまっすぐの新しい流路に付け替えられています。

ヒメボタルは陸生の巻貝(キセルガイなどのカタツムリの仲間)を食べる陸生のホタルです。

 

 2007.6.12. 17:46  大阪狭山市東茱萸木3丁目 西除川にて

近くのせせらぎ橋にこんなモニュメントがありました。

 

 現在はD地点がフェンスで保護され、管理されています。夜7:30~10:00前まで、ボランティアの方により無料で開放していただいています。

 

 

 2014.5.28.21:11  これもことしのヒメボタル

 

 

 2007.6.12.17:47 大阪狭山市東茱萸木3丁目 西除川にて

きれいで、さわやかな橋の欄干ですね。

 

 ちょっといたずらで漫画を描いてみました。クワガタは甲虫類でホタルと同じ仲間ですが、生息する時期が違いますよね。

 

 2014.5.28. 21:11 今年のヒメボタル。

実際行くともっとあちこちにいますが、カメラで写して拡大しているのでどうしても部分、部分になってしまいます。

観測数は天候や時刻において変動しますが、おおむね20時30分から21時30分頃までが多く光ります。

 

 2011.6.14.22:09 河内長野市高向 大阪府立 花の文化園付近 これはゲンジボタル

発光の色はゲンジボタルが、やや緑がかった白に対し、ヒメボタルは白っぽく、発光の間隔が短いため、観測数が多いとまるでクリスマスツリーの電飾のようになります。毎年、6月5日がピークとなります。一度は観ておいてくださいね。

 

 案内地図

つぼみ幼稚園の角、橋の東詰を南に入ってください。街灯があまりなく暗いですが、数百メートル行くと、「狭山ヒメボタルを守る会」の方が、誘導灯を持って、案内されてます。

☆6月中旬 河内長野市高向でゲンジボタル150匹(昨年、1地点で)、壮大ないのちの営みが!

 また、情報を公開しますので、見てくださいね。

撮影:2014.5月28日

2014.5月31日 (HN:アブラコウモリH )

 

【追記】2016.5.25.

ことしのヒメボタルの発生は、昨年に引き続き、例年より1週間くらい早いそうです。(今年の最初の発生は5月12日)

2016.5.25.21:00現在の発生数は、220匹。ほぼ昨年並みの発生数です。

ピークは、あす夜は雨のため、あさって5.27.(金)21:00過ぎがピークになるのではと思われます。

 【追記】2018.5.16.

今期初めて観察に行きました。「守る会」の方に聞くと、5匹くらい発生しているということでしたが、20:30に特別に観察させてもらったら、発光しているのは1匹しか見つけられませんでした。それもずっと発光しているのではなくて、時々飛んで光る程度でした。

発生はほぼ例年通り。ピークは守る会の方に聞くと。5月25日~28日位ということでした。

一般の公開は5月20日(日)からです。

 

【追記】2018.5.28.

5月25日(金)に見に行ったとき(8時過ぎ)はそれほどでもなかったですが、それでも291匹発生していたとのこと。(狭山ヒメボタルを守る会 の記録より)

5月28日(月)9時過ぎに再度見に行ったときは、入口付近はクリスマスの電飾のように飛んでいました。

ピークは過ぎて、200匹台との守る会の方のお話でした。

今年は5月26日(土)が326匹でピークのようです。

発生数は年により差があり、ピークも年により、また天候、気温、見学時間により異なるようです。

時間は8時30分から9時30分位、気温の低い日、雨の日は少ないようです。

 毎日の発生の状況は、狭山ヒメボタルを守る会 のTwitterで確認することができます。

 

追伸:富田林市域でのヒメホタルの情報をこのブログで後日報告します。

 

 

住吉大社の御田植祭り

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このお田植祭りは大阪落語の「住吉踊り」や江戸・東京で流行った「かっぽれ」

の原点にもなるそうです。

(by ken)

 

奥の谷の水の生き物池での観察

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 6月17日、「富田林の自然を守る市民運動協議会」(富田林の自然を守る会)主催、親子で楽しめる行事として、奥の谷(里山)で「水の生き物池での観察会」が開催されました。総勢48名の親子・孫連れが参加されました。「水の生き物池」は過去の水田を沼地として、自然の生き物、草花を繫殖するために作られました。当日は子供たちの背丈までのびた水草「カサツキ?」等をかき分け、泥んこになりながら、「メダカ」「オタマジャクシ」「トンボのヤゴ」等11種類の水の生き物を捕獲しました。その様子を紹介します。  2018.06.17 撮影。

 

スタッフの挨拶、水の生き物池での注意事項等の説明が行われた。

残念ながらこれ以降はカメラのバッテリー切れの為、撮影できませんでした(カメラマン失格かな⁇)

以降の状況は、捕獲した生き物の説明と観察、そして美味しい昼食、本日は薪で炊いたご飯で親子丼、勿論全て完食、お代わりが不足していた。  2018.06.20  kusu

 

西高野街道と百舌鳥古墳群

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6月12日(火)「富田林百景+」平成30年度、初回のの館外講座、富田林中央公民館講座が開催された。

今回は、(西高野街道と百舌鳥古墳群を巡る)の状況の一部を紹介します。 2018.06.12 撮影







西高野街道は、堺の大小路を起点として南東に向、百舌鳥、狭山で中高野街道と合流、河内長野で東高野街道と合流して高野山に向かう、平安時代後期から鎌倉時代初期には高野参詣道として使用されたと考えられる。




百舌鳥八幡宮と境内の大楠、推定樹齢700~800年(大阪府指定天然記、路標には文政十三年の刻銘有り。




庄屋高林家住宅、大阪府下で最も古い民家のひとつ、(安土桃山時代、天正年間(1573~1592)の建物の柱、梁が残されている)



御廟山古墳(前方後円墳、墳丘長203m、大きさ4位、5世紀前半)


いたすけ古墳(前方後円墳、墳丘長146m、大きさ7位、5世紀前半)


履中陵(前方後円墳、墳丘長365m、大きさ3位、5世紀初頭)




堺市茶室(伸庵)抹茶で一服。(抹茶をたしまむ顔ぶれかな?失礼、私も含む)

重要文化財,旧浄土寺九重塔(千早赤阪村小吹より移設、嘉元四年(1306)の刻銘あり、花崗岩製、高さ3.6m)




仁徳陵(前方後円墳、墳丘長486m、大きさ146位、5世紀146中頃)



2018.06.26  kusu







東公民館木彫クラブの製作品の展示

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東公民館のクラブの一つ「木彫クラブ」は毎月第2・第4周日曜日の月2回活動されております。クラブ員が根拠強くコツコツと制作して完成した製作品を公民館1階フロアーに6月24日~7月8日まで展示されております。その一部を紹介します。なお、他にも立派な作品が展示されておりますので、ご来館お待ちしております。2018.06.25 撮影

































2018.06.27  KUSU






金剛・葛城の「神話の里」へ

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R309 水越トンネルを越えると直ぐです。

「葛城一言主神社」

一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。そして、『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言(いちごん)さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。御所市ガイドより

樹齢650年の無患子(むくろじ)

無患子とは、子供が患わない・病気をしないと言う意味だそうです。

お釈迦様は手ずからムクロジ108個を繋いだ数珠をお作りになり、薬師如来様・大日如来様や

十大弟子に配ったそうです。

また、樹齢1200年の乳垂れイチョウもあります。

ここは、彼岸花の群生地で多くのカメラマンが訪れます。

 高天彦神社への杉の並木道です。近年、パワースポットとして訪れる人が多いそうです。

 

 

古代豪族鴨氏の守護神を祀る。京都の上賀茂・下鴨をはじめとする全国の賀茂社の総社である。

弥生中期より祭祀を行う日本最古の神社のひとつ。天文12(1543)年に再建された本殿(国指定重要文化財)は

桃山時代の神社建築を代表する建築物で、三間社流造になっている。本殿内には快慶の銘が入った狛犬がある。

高鴨神社 境内図

高鴨神社HPからの動画です。

 富田林にも、似た名前の神社があります。

鴨習太神社です。河南町にあります。

「河南町あたりをブ~ラブラ」は、こちらから。

辰じいでした。 2018/06/27 UPしました。

コメントお待ちしています。

矢田寺(あじさい寺)のあじさい

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6月15日は小雨日和であったが、奈良大和の矢田寺(あじさい寺)の「あじさい」見学に沢山の訪問者でにぎわっていました。あじさいも、梅雨を浴びて一層鮮やかと思いましたのでその一部を紹介します。2018.06.15撮影

矢田寺は飛鳥時代(680年頃)開基、現代は高野山真言宗別格本山となっております。

カタツムリを見つけた。

2018.06.30 kusu

高鴨神社の灯籠

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 〈画面をクリックすると別の角度の写真が見られます〉

 

 〈画面をクリックすると拡大します〉

 

 

 

 〈画面をクリックすると鐘楼が見られます〉

 

 〈画面をクリックすると全体像が見られます〉

 

 

 

 

 

 〈画面をクリックすると拡大します〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

撮影:2018.7.3.

すこしだけ関連記事:金剛・葛城の「神話の里」へ 2018.6.27.

             「河州酒造家」の石灯籠―松尾大社 2017.1.20.

2018年7月5日 (HN:アブラコウモリH )

 

温室にトラがいる!

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2018年5月25日16:12 堺市堺区東上野芝町1丁4-3 堺市都市緑化センター

屋上庭園から温室に入ってみてびっくり! 

ブーゲンビリアの花の向こうに、トラがいる!!

 

レプリカや!何でこんなところに居るねん!「どっきり」か?

「花と水の広場」にて

うわっ!今度はカモや!

リアルなレプリカ。

 

こいつは、ほんものや!!

撮影日:2018年5月25日 

2018年6月6日 ( HN:アブラコウモリH )

 

高鴨神社の灯籠

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 2018.7.3. 御所市鴨神 式内社(名神大社) 高鴨神社

高鴨神社は大和地方南部のの古代豪族である鴨族の守護神を祀った社で、日本最古の神社のひとつ。
弥生中期、この地から鴨の一族はひろく全国に分布してゆき、各地で鴨族の神を祀りました。中でも京都の賀茂神社は有名ですが、高鴨神社はそれら賀茂社の総社に当たるということです。

 

 池のほとりに紫陽花が似合う新しい拝殿

古くからこの地に鴨の一族は居住し、その後広く全国に移住していきました。現在も各地に残る「鴨」「加茂」「賀茂」の名前がそれを物語っています。

 

杉の大木に被われた参道

 

 拝殿横に並んだ灯籠群 

拝殿すぐ横の灯籠に注目してください。

 

 宝永五年(1708)に氏子仲間により奉納された「永代常夜燈」

なんだか灯籠の基礎部分に何かいますね。

 

 四天王像の邪鬼のように踏みつけられて苦悶の表情をしています。

かつては悪鬼だった邪鬼が、改心して縁の下の力持ちとして、お役に立とうとしているけなげな姿に見えてきます。

〈画面をクリックすると別の角度の写真が見られます〉

 

 石垣に灯籠の形をした石が埋め込まれています。おもしろいですね。どこかわかりますか?

〈画面をクリックすると拡大します〉

 

 高鴨神社の絵馬

迦毛之大御神(かものおおみかみ)の名前がありますが、八百万の神々で「大御神」と名のつく神様は他に天照大御神、伊邪那岐大御神しかおられないそうです。

 

 〈画面をクリックすると鐘楼が見られます〉

 神社なのに鐘楼があるのはおもしろいですね。

 

 〈画面をクリックすると全体像が見られます〉

参道脇に楠木正成の銅像がありました。昭和十五年(紀元二千六百年)に記念として葛城南小学校に寄贈されたものを移設したのとのことでした。

 

 高鴨神社の紋 菊水

菊水は楠公さんの家紋と同じですね。

 

 高鴨神社一帯は「鴨神」と呼ばれ、古代鴨氏や葛城氏が居住していた地域でもあります。

 

 〈画面をクリックすると拡大します〉

風の森峠の道標 峠は歴史の道でもあります。

 

 風の森峠付近 南からの風が吹き抜けます。

 

 「風の森」のバス停 「風の森」いい名前ですね。

 

 下街道(国道24号線) 風の森峠 大和盆地側(北側)

 

 峠の丘にある志那都彦神社(風の森神社)に登る階段の横にあったお地蔵さま?

これは相当古い時代のもののような気がします。

 

 近くには高天彦神社や八幡神社、橋本院など葛城古道沿いにあります。

また今度歴史の道を訪れたいと思います。

撮影:2018.7.3.

すこしだけ関連記事:金剛・葛城の「神話の里」へ 2018.6.27.

             「河州酒造家」の石灯籠―松尾大社 2017.1.20.

2018年7月5日 (HN:アブラコウモリH )

 

石川の石

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 2018年7月10日 富田林市彼方(おちかた) 石川

 赤い欄干の橋は「高橋」。背後の山は和泉山脈。真ん中の高い山は岩湧山。

先日の雨で増水しています。

 

 ここは大和川に注ぐ石川の中流に当たります。人の頭くらいの大きめの石がかなり混じります。

 

 人の背丈ほどもある巨石が2個。花崗岩です。どこから運ばれてきたのでしょうか?

 

川の中ほどに頭をだしている、あれは何でしょう?

これは化石です。幹回りが4.5mもある立木の化石です。根元部分が残っています。

針葉樹で、メタセコイアの可能性が高いことがわかっています。

 〈画面をクリックすると拡大します〉

 

 おっと、沢ガニがいましたよ! 本流では、はじめて見ました。

 

 石川の石をよく見ると何種類かの石に分けることができます。

 

花崗(かこう)岩のなかま 白っぽい感じでゴマ状の黒い斑点があるもの

火成岩の中で、深成岩に属します。花崗閃緑岩や閃緑岩に近いものも見られます。

後に熱変成を受けた片麻岩質のもよく落ちています。

上流部の金剛山地など領家(りょうけ)帯(花崗・片麻岩帯)のエリアから流れてきたものと思われます。

岩そのものは、一億年ほど前に地底深くで、マグマが長い年月をかけてゆっくり冷えて形成され、場合により一部は熱変成をうけて、その後地殻変動により隆起しました。

この石、石垣や家の礎石、またお墓の墓碑・お地蔵さん・道標などによく使われていますね。

 

 砂岩 グレーっぽいもの、やや鉄さび色のものなど砂が固まってできた堆積岩

石川本流の最上流部、和泉山脈にある蔵王峠付近の和泉層群から流れ着いたもの。いわゆる和泉砂岩です。

 この和泉層群は,まだ恐竜がすんでいた時代(白亜紀)である約7500万年前に,主に海の浅いところでたまった地層でその後の地殻変動で地表に出てきています。砂や石ころ(礫)、泥が互層となっています。

淡路島や泉州ではアンモナイトや二枚貝などの化石を多く産出し、化石採集できるところもあります。

 この石も石垣やお地蔵さん、古い江戸時代のお墓の墓碑などによく見られます。

花崗岩よりは加工がしやすいようです。

 

「俺って、なんなの...」

たぶん、7500万年前に生まれた、「和泉 層群」 くんであろうかと思われます。

〈2014.1.23.確認〉

 

 小石が混じっているのは礫(れき)岩

同じく和泉層群の礫岩です。砂岩と同じく堆積岩で、砂岩と同じ地域で形成されました。

礫には砂岩だけでなく、チャートや花崗岩類などの石も含まれています。

 

 チャート

石川で小石として拾えるチャートは石の表面がつややかなものが多く、緑、白、茶色などいろんな色のものがあって、白い縞模様が入っていたりします。

硬い石で、マッチやライターがない時代は火打石に利用されていました。

この石川では花崗岩類、砂岩の次によく見つかります。堆積岩の一種で主成分は二酸化ケイ素。4000m以上の深い海で、この成分を持つ放散虫・珪質海綿、珪藻などの生物の死骸が海底深くに堆積してできたもので、その後の隆起により近くに出てきたものと思われます。チャートは二億五千万年前から一億五千万年も前に形成されました。

だだし、チャートは花崗岩や和泉砂岩のようにそのエリアの基盤岩であるわけでなく、大阪層群(数万年~100数10万年昔の間に堆積した地層群)や周りの河岸段丘堆積物の中に含まれているチャートの小石が、石川の浸食作用により流されてきたものと思われます。

チャートが基盤岩になっている地域は近くでは大阪北部の山や愛宕山のように京都西北部の山なので、そこの岩盤が浸食され、長い年月を経て石ころになったものが大阪層群に堆積され、また大阪層群が河川の浸食堆積作用により河岸段丘堆積物になったものがさらに浸食され、最終的にここにあると考えられます。ややこしい。

 

安山岩

これは汐の宮火山岩です。玄武岩に近い安山岩で、サヌカイトに岩質が近いのでサヌキトイドとも言われています。

ここ高橋の2km上流に川の中に「横山潮湧石」があり柱状節理と冷泉の湧出が見られます。この柱状節理の安山岩が剥がれて流されてきたもので、元の位置が近いのと安山岩が比較的硬いため、あまり角が丸くなっていません。

白っぽいグレーをしていますが、サヌカイトやサヌキトイドの特徴で、割ると真っ黒な岩質が現われます。

〈画面をクリックしてください〉

流れ着く前にあった場所はここです。: 私の富田林百景+  「 横山潮湧石 」 2013.10.04.

                         横山潮湧石 2016 2016.12.2.

 

これらの石はいろんなエリアから流れ着いてくるのですね。 

 文字通り石の川、「石川」

日本書紀 仁徳天皇十四年(386)に、「...掘大溝於感玖 乃引石河水...(...感玖(こむく)の大溝(おおうなで、おおみぞ)を掘る。すなわち石川の水を引く...)」と記載されています。

*感玖(こむく)は石川郡紺口(こむく)に比定され、現在の富田林市竜泉周辺に当たるそうです。

1600年以上前から、石川と呼ばれているように石の川、「石川」。

 

 早春の雪国のような、雪解け水で増水しているようにも見れます。

撮影日:2018年7月10日 

2018年7月12日 ( HN:アブラコウモリH )

 


「柏原・八尾の旧大和川を訪ねて」

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長瀬川両サイドの「アクアロード柏原」のカラーパネル(カラータイル?)と、内容の解説を紹介します。

今回のコースで確認したもので、一部未確認があります。

 

出自は、「新撰性氏録」左京神別に見える、柏原連か?

大阪府柏原市古町の大和川右岸にある取水口を水源(一級河川の起点)とし北流。大阪市城東区森之宮と城東区中浜の境界で第二寝屋川に合流する。了意川(りょういがわ)、百済川(くだらがわ)、河内川あるいは竜華川(りゅうげがわ)とも呼ばれていた。

以下の画像で、カーソル「指差し」マーク分の表示がある画像は,

クリックしてください。

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、河内国国分僧寺の寺院跡にあたる

かつて、柏原市内で出土した文化財の中に多鈕細文鏡という鏡がある。弥生時代の青銅鏡で、直径は21.7センチある。背面、中心線から少し上に二つの鈕(ちゅう=つまみ)が左右に並んでおり、背面の全体が鋸歯文(きょしもん)と呼ばれる、のこぎりの歯のような形の細線文様で覆われている。 この鏡は、大正14年(1925)4月のある日、大阪府中河内郡堅下村大県(現・柏原市大県)の高尾山山頂近くの松林の土中から、開墾作業中のA青年によって発見された。最終的には、博物館に収められることになるのだが、それまでに多数の人の手を渡り、各地を転々として、その度に価格が高くなるなど、数奇な運命をたどった。

生安寺の堂前の軒下に直径30センチぐらいの鰐口がかかっています。その鰐口の銘帯に「生安寺」と書いてなくて「河内国道明寺長福寺」と書いてあります。長福寺というのは昔、藤井寺市の「道明寺」の境内にあった寺です。この鰐口は1371年の鋳造です。

南詰に「夏目茶屋の渡し」跡の説明板が設置されている。かつては明治初期に大和川南岸に新しい街道(現・国道25号)が整備されるまではここで渡し船で対岸に渡り、亀の瀬経由で奈良方面に通じていた。かつて渡し場付近には茶屋があり、付近にナツメが植えられていたのが名の由来とされる。

 

文政13年(1830)、現在の柏原市国分に郷土の子弟教育のための学校・「立教館」が設立された。設立者は、国分出身の医師・柘植葛城(諱は常熈。通称は卓馬)という人物。設立当初は、明円寺(妙円寺)という寺の境内にあったようだが、その後、塾生(通学者)が増えて建物が手狭になったため、文久3年(1863)に新しく建て直されることになった。しかし、幕末の動乱の中、工事は遅れ、完成したのは、ようやく明治4年(1871)になってからのことだった。それが、現在、旭ヶ丘3丁目の関西福祉科学大学の敷地内に残る建物である。

 創建は成務天皇21年(151)と伝えられ、延喜式神名帳に記されている式内社です。往古は鐸比古命は奥之院高尾山頂に祭祀され高尾大明神と称し、また、鐸比売命は高尾山麓姫山に祭祀され比賣御前と称し、雨乞いの祈願所でした。

天平年間に行基が開創、本尊の薬師如来像は行基の作と伝わる。かつては『七堂伽藍を具備せし巨刹なり』といわれ、大規模な寺院だったが、織田信長の信貴山城攻略の際に兵火に遇い、その後慶安四年(1651年)に再建されるも往時のような規模にはならず、境内は縮小して現在は敷地わずか123坪となり、本堂、庫裏、廊下および不動堂があるのみとなっている

安福寺の境内に手水鉢として置かれていました。文字通り竹を割ったような形で、長さが約260cm、幅が80~90cm、蓋の縁に沿って幅11cmの帯 状に直弧文(ちょっこもん)の文様が刻まれています。発掘の記録は残っていませんが、安福寺の北側にある勝負山(かちまけやま)古墳とも呼ばれた玉手山3 号墳から出土し、移されたと伝えられています。石材は讃岐(香川県)の鷲ノ山(わしのやま)産の凝灰岩を使用したもので、同様の形態の石棺は大半が四国の 前期古墳から出土しています。

 

奈良県から大阪府へと流れる大和川。その府県境付近を「亀の瀬」といいます。大和川の川幅がもっとも狭く、流れも速くなっており渓谷としての景観を生み出しています

高井田横穴群は、大和川の北側にあり、南へ張り出す尾根の斜面を中心に広がる横穴群です。これまでに162基の横穴が確認され、未調査部分にも多数存在することはまちがいなく、実際の数は200基を大幅に上回ります。

浄井戸(じょいど)とも呼ばれる湧水地です。石神社(いわじんじゃ)の東側にある井戸で、生駒山地の岩盤を通って浄化された湧き水です。地元ではおいしい天然水として古くから親しまれてきました(今は、あまり飲用には適しません)。弘法大師(空海)がこの井戸を掘って、干ばつに苦しむ人たちを救ったという言い伝えがあります。

最も多く出土する遺物で、平成21・22年度の調査では、瓦だけで約12000点見つかっています。特徴的な瓦として、蓮華文様のある軒丸瓦、弧状の線のある軒平瓦や、仏像が描かれた平瓦、文字が書かれた平瓦などがあります。

奈良盆地から大阪平野への出入り口に位置する柏原の地は、戦略的にも重要な場所で、慶長20年(1615)に大坂夏の陣の戦端が開かれたのも、この地においてでした。市域内、玉手山の一帯が、その古戦場で、市立玉手山公園内やその周辺には、ここで討ち死にした豊臣方の武将・後藤又兵衛基次の碑や徳川方の武将・奥田三郎右衛門らの墓、両軍戦死者の供養塔などが残されています。

河内西国第七番札所本尊であり、融通念佛宗寺院となる前からこの地に祀られていたと伝わる観音像は、現在本堂の厨子の中に安置され秘仏となっているが、以前は山門をくぐって右奥の観音堂に祀られていた。

小高い丘陵部からは「河内嵐山」と称された大和川周辺の風景、応神天皇陵古墳・仲哀天皇陵古墳・允恭天皇陵古墳などを一望するビューポイントも。 後半は大和川を北へ渡って、主に江戸時代の旧跡巡り。 広い大和川河川敷公園のそばに、近世の治水や舟運の関連史跡などが残り、見飽きることがない。

立教館は文政13年(1830年)、頼山陽(らいさんよう)に学んだ国分村の柘植常熙(つげじょうき:葛城)が郷土の子弟にも教育を受けさせようと、地 元の有志を募って建てた私塾です。頼山陽も何度かここを訪れ講義を行いました。また、裏手を流れる大和川の眺めを賞賛し、「河内嵐山」と評したとも伝えら れています。

柏原市の市章は、柏原の「カ」と「ハ」を図案化したもので、大和川と石川の合流点に位置する当市のはてしない発展と親和を象徴したものです。

どこかの外車のMARKとは、違います。

竜田越奈良街道(たつたごえならかいどう)は、奈良に至る「奈良街道」の一つ。 大阪と奈良を結ぶ街道の一つであり、斑鳩町の竜田(龍田神社付近)を通る「竜田道」の一つである。 現在は国道25号が踏襲している。

坂戸牧とも書く。文徳源氏で白河院の北面の武士であった検非違使源康季の本拠で,この一族は坂戸源氏と称された。同氏が牧を領有しはじめたのは,遅くとも11世紀の末,康季の曾祖父河内守公則のころと考えられる。

近くを流れる石川を伯太川と云ったようで、安宿郡資母郷の伯太川沿岸で農耕に従事した田部すなわち田邊史の祖先である伯孫を祭ったものと推測されている。『柏原市史』に、円明、玉手の両地域は渡来系氏族の藩居した地で、田邊氏と飛鳥戸造一族が居住していたとある。

1704年の大和川付け替えとその後の新田開発等により、この辺り一帯は明治初期まで有数の綿作及び木綿生産地帯であった。しかし、1900年代初頭には、輸入綿増加等の影響により綿作は激減、稲作やぶどう栽培がおこなわれる。

戦前の産業としては、ブラシ毛植、貝ボタン製造などが農家の副業として行われていた。

大阪府柏原市雁多尾畑にあります浄土真宗大谷派の光徳寺は、JR西日本の大和路線、河内堅上駅が最寄り駅になります。駅から徒歩17分の距離にあります。本堂は別名を「雁林堂」(かりんどう)とも言います。「雁多尾畑」(かりんどおばた)の地名の由来ともいわれています。光徳寺は永延2年(988年)の平安時代に延暦寺の僧でありました法円によって創建されました。本尊は阿弥陀如来、二度の火災に会い現在に至っています。現在の建物などは再建後約240年を経過しています。

万葉集によると、奈良時代には築留(つきどめ)付近に「河内大橋(かわちおおはし)」と呼ばれる丹塗りの橋が架かっていたようです。その橋の東のたもととみられる安堂遺跡で、人面土器などを出土する井戸が発見されています。もしかすると、水にまつわる祭祀が行われていたのかもしれません。

平安初期の歌人、在原業平。六歌仙および三十六歌仙の1人で、秀麗な容貌で数多くの女性を虜にしたといいます。

彼が高安の河内姫のもとに行くときに通ったとみられる道を「業平道」と呼んでいます。

三田家住宅は奈良街道に面した町家で、裏は了意川(りょういがわ:平野川)に接し、柏原船(かしわらぶね)の積荷をそのまま荷揚げできる造りになってい ました。三田家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636年)に代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17 年に柏原に移り住んで柏原船の運航や肥料商を営みました。明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の大改築(大普請)が行われ、その屋敷がそれ以 後大きな改築を行われず今日まで遺されています。この時の普請関係の文書も多数遺され、建設時期が明確に示されるとともに当時の生活・経済状況も窺い知る 事が出来る貴重な資料として、文書類も合わせて重要文化財に指定されています。

東高野街道の真ん中あたりか?

 

 

 

 

お疲れ様でした。

最後まで見ていただいてありがとうございました。

辰じいでした。

葛城古道 髙天彦神社周辺

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 2018.7.17.13:27 御所市北窪 髙天彦(たかまひこ)神社周辺 標高434m

背後の山は髙天彦神社の御神体山の白雲嶽 別称 高天山 標高694m

「神話の里」 天孫降臨伝説のある高天原一帯、無料駐車場があるのでここから周辺を歩きました。

 

 田んぼのかえる 無事帰れますように...

 画面をクリックすると高天彦神社横の福蛙が見れます。

「昔より此の村の道端に幸せを呼ぶ福蛙」。天然石でできているようです。

 

涼しそうに見えますが、 なんと気温が39度近くに上昇...13:33

 

 磐之媛皇后の歌碑

このあたりは鴨氏、葛城氏の本貫地でもありますが、 磐之媛は葛城氏の襲津彦の娘で、仁徳天皇の皇后でありました。

履中天皇、反正天皇、允恭天皇のお母さんでもあります。

 

 参道には樹齢数百年の杉並木が続きます。

 

式内社 高天彦神社

「延喜式」に 大和 葛上郡十七坐の一で高天彦神社とあります。
名神大社に列せられ 祭神は高見産霊尊(たかみむすびのみこと)別名 高天彦神。
御神体は 社殿の後方にそびえる白雲嶽。よって、本殿はありません。

大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社 であることから、 古代豪族、葛城氏ゆかりの神社と言われています。

葛城氏は始めこのあたりの台地に居住し、その後台地を降りて水稲農耕を始めました。そして、鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。これが葛城王朝といわれています。葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、九代で滅びますが、武内宿祢によって復興 し大臣(おおおみ)は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されたといわれています。(諸説あります。)

 

 社殿の左奥にある蜘蛛(くも)塚

蜘蛛塚は「土蜘蛛」を霊を祀ったものと云われています。「土蜘蛛」とはこの地域のの先住の人々のことで、自分たちに恭順せず敵対し支配下に入らなかった「まつろわぬ人々」を蔑視した言い方です。高天エリアには高天彦神社の土蜘蛛塚のほかに蜘蛛窟と呼ばれる土蜘蛛の史跡があります。

 

  「高天原旧跡地」

「高天」はこの一帯の地名でもあり、高見産霊尊は「天孫降臨」に深くかかわった高天原の神であるために この地に いまも高天原伝説が伝承されています。

 

 神霊の碑

 

 領家帯の花崗・片麻岩帯にあるので、民家の石垣も全部花崗岩。

高天彦神社から橋本院に向かいます。

 

葛城の 高間(高天)の草野 はや知りて 標刺さましを 今ぞ悔しき  万葉集 巻七の1337   

高天寺橋本院の駐車場に建てられています。

 

 橋本院の観音堂の前で

これは自生種のヤマユリのようです。途中の林からも顔を出していました。

 

 護摩堂の前、「修業大師 南無大師遍照金剛」とあります。 

弘法大師の足元に咲いているオニユリがきれいでした。

高天寺橋本院は真言宗のお寺です。 高天寺は旧来行基菩薩が開基し、鑑真和上が住職に任命された事もあるという由緒あるお寺で、参拝する人々が絶えぬほど盛大かつ繁栄を極め、「高天千軒」と呼ばれていたこともありました。

しかし、南北朝時代に北朝方の畠山基国や高師直ら焼き討ちにあい、その後350年間荒廃しましたが、延宝五年(1677)高天寺の一子院橋本院として復興しました。

 

 途中猪除けのフェンスはいくつもありました。

 

 杉が植林された山道を通ります。

道が深くえぐれています。

 

 というのも、山全体が花崗岩の風化土(真砂)で、次第に自然に削られたのではないかと思われます。

 

 案内板は要所要所にあり、安心して歩くことができました。

 

シダの群生

 

 美しい杉の植林

 

 森の出口にあったミツバチの巣箱

 

 近寄ったらにらまれた。

 

 美しい田んぼが続きます。

 

 吐田(はんだ)極楽寺(御所市極楽寺108)に着きました。 

立派な鐘楼門とよく手入れされた庭先がきれいです。

仏頭山法眼院極楽寺は、浄土宗のお寺で、開山は一和僧都。開基は天歴五年(951)。 

建治元年(1275)の頃、葛木城主 吐田五郎国資(はんだごろうくにより)は、所領を寄進してその境内に七堂伽藍完備し、西塔東塔天に聳え一世の美観を呈しました。

南北朝時代には、楠正成公の祈願の寺と云われ、河内、金剛、吉野の連絡の要としての重要な寺院でした。

戦国時代、天正十年(1582)に当寺の大檀那、吐田越前守遠秀が筒井順慶との会峰の戦に討死し、俄かに衰亡の影が濃くなりました。そして、慶長十九年(1614)再起を計るも果さず遂に戦いに敗れ、城を追われた一族は菩提所を最後の場と定め、当寺に入り火を放って悉く自刃して果てました。

天保七年(1836)ようやく再建がなり、現在に至っています。

 

 お寺に水屋(手水鉢)がありました。

 

 小楼門より本堂を望む。

ここからすこし下ったところに、極楽寺ヒビキ遺跡(御所市極楽寺)があります。

「御所で葛城氏の館跡発見さる!」「雄略天皇に焼き討ちを掛けられて滅ぼされた、葛城円(つぶら)の館跡か?」という新聞記事でも有名になりました。

他にも、南郷安田遺跡(水辺の祭祀跡)や南郷大東遺跡(大型掘立建物跡)のように多くの葛城氏に関わると思われる遺跡が見つかっています。

 

古そうなお墓。全部花崗岩でできています。先ほどの民家の石垣と同じように、地質が領家帯の花崗・片麻岩に属し、このあたりで取れる石が花崗岩であるからだと思われます。

〈比較〉南河内の古いお墓は花崗岩だけでなく、和泉砂岩も混じります。

花崗岩は金剛・葛城山地(領家帯花崗・片麻岩帯)、和泉砂岩は和泉山脈(和泉層群)から採取できます。

 〈画面をクリックすると、花崗岩だけでなく和泉砂岩も混じる墓碑の大阪狭山市今熊の大三昧(おざんまい)墓地の無縁塔のようすが見れます。〉

 

 

南河内ではあまり見かけない形状の夫婦墓

 

 いくつもありました。

 

 こういうタイプもありました。材質は和歌山 三波川変成帯の緑泥片岩か?

 

 一石五輪塔ですが、薄いんです。これも緑泥片岩か?

 

 ほら、こんなに薄い。

 

 いくつもありました。

 

 石灯籠の宝珠と請花のような「お墓」

 

 これは一体何を意味するものか分かりません。墓碑なのでしょうか?

 

 あちこちにあります。カルチャーショック状態。

 

 帰り道、うっすらけむる秋津島 大和三山の畝傍山が見えます。

 

 山麓線(奈良県道30号線)に沿っての帰り道、「高天」の案内板が見えました。

 

 そこを通り過ぎて、見上げると金剛山麓。

 

 大和盆地がさらに遠くにかすみます。

 

ほどなく仁王さんが迎えてくれる菩提寺(御所市伏見454)に着きました。

菩提寺は、奈良時代、行基菩薩が駐留した所に建てられた道場「菩提院」の跡と云われています。

平安時代には弘法大師が参籠祈願し、勅願所として又修験道の道場として、子院三十余箇坊がならび建っていたといわれています。貞和年間(1350頃)一山兵火にかかり、数院だけが残ったとのこと。
 江戸時代貞享年間(1685頃)本堂、仁王門を復興し、元文元年(1736)には本堂、鐘楼、仁王門と西ノ坊、東南院、千手院、来迎院、東室院、真藏院の六院が甍をつらねていたと云います。

 

菩提寺の歌碑 「かづらぎの 青葉背負ひて 仁王立つ」

 葛城は「かつらぎ」とも「かづらぎ」とも読みます。

 

 ため池からの分水 3つに分かれます。

 

 八幡神社 御所市伏見字奥神417 に着きました。

 

 103段の石段を上りつめて拝殿へ

 応神天皇(誉田別尊-ほむだわけのみこと)を祭神として祀っています。このあたりから北のエリアは応神天皇とその子仁徳天皇(4C後半~5C初)以降、最大の氏族であった葛城氏の本貫地として栄えたといわれています。神社の境内外には多くの古墳があります。

一番古い棟札は天正4年(1576)とあり、度重なる修復の跡が見られますが、本殿、摂社は安土桃山時代の建築様式を色濃く伝えているということです。

 

 八幡神社駐車場より ここは標高379m

 

 三角の山の方向に向かいます。

 

 八幡神社から高天彦神社に至る山道。最近完成したもののようです。

 

 橋はなく、川の石ころの所を渡ります、迷いやすいので注意!

 石はすべて花崗岩で、砂は真砂(花崗岩の風化した砂)。

 

 蟻地獄発見。

 

 地獄の主

 

 道の脇に庚申塚がありました。

 

 庚申さんの身代わり申(さる)たち

 

 このあたりは花崗岩の風化地帯のようです。

 

 元の場所に戻ってきました。やれやれ、気温も31度に下がりました。17:21

 

 夕刻、金剛の峰の山裾、高天の一帯に静けさが戻りました。

 

撮影日:2018年7月17日 

関連記事:高鴨神社の灯籠 2018.7.5.

2018年7月24日 ( HN:アブラコウモリH )

 

台風12号が通過ー2018.7.29.

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 2018.7.29.3:23 富田林市本町 夜中に激しい雨音で目が覚めました。

 風上の窓は、雨が叩きつけて開かなく、風下の窓から外をうかがうと、滝のような雨!風も半端ない!

 

 

 3:24 ちょっとカメラを向けたらこんなんになりました。飛沫(しぶき)がレンズに付いたようです。

 

 

 3:33 テレビをつけたら、「うわ~! 大阪が一番降っとる!」

 

 「なに!1時間の雨量、葛城市48.5mm、河内長野31.5mmやと!日本で一番降っとるやん!!」

 

 「積算雨量も多いぞ!」

 

 「うわっ!! すぐ近くに来とる!」

 

 「直撃や!!!」

 

 「なんや、これは!」

2018年7月29日 ( HN:アブラコウモリH )

 

美具久留御魂神社の「夏祭り・茅の輪くぐり(平成30年7月15日)」

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夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。参道の鳥居や笹の葉を建てて注連縄を張った結界内に茅で編んだ直径数 m ほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと 8 字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うというものである。かつては茅の輪の小さいものを腰につけたり首にかけたとされる。

旧暦の6月末に行われる「夏越の祓」は、半年分のケガレを落とす行事で、この後の半年の健康と厄除けを祈願します。由来は神話の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらひ)にまで遡るそうですが、新暦に移った現在でも、6月30日ごろ日本各地の神社で行なわれている伝統行事です。

画像クリックで、拡大されます。

美具久留御魂神社 案内図です。

画像クリックで拡大されます。

画像クリックで「河内名所図会」へ

下拝殿に掲げられている、絵馬「第7回朝鮮通信使」の模様です。

壬戌 天和2年(1682)徳川綱吉の征夷大将軍就任を祝う朝鮮通信使が派遣されました。

通信使は対馬藩の案内で、瀬戸内海から淀川を上がり、東海道で江戸に向かうルートをとっていたため、富田林とはかけ離れていましたが、この絵馬から当時通信使の評判が、庶民の間にも広く行き渡っていたことを知ることができます。

記録では、7月28日から8月1日まで「大阪城 泊り」となっています。

クリックで解説拡大します。

絵馬の隣には、「茅の輪くぐり」の額もありました。

蘇民将来

なぜ、夏越祓いとして茅の輪くぐりを行うようになったかは「備後風土記」に書かれている「蘇民将来の話」が由来となっています。

あるとき、北海にいた武塔神(むとうしん)が南海にいた女神を訪れようとして道に迷ってしままいまた。

そこで蘇民将来(そみんしょうらい)と巨旦将来(こたんしょうらい)の2人の兄弟に一夜の宿を頼みましたが、弟の巨旦将来は金持ちでしたがのに断り、兄の蘇民将来は貧しけれども武搭神を喜んで家に招き入れ、粟殻の座布因に座らせ、粟飯をごちそうして宿を提供しました。武塔神は恩返しとして蘇民将来に「茅の輪」のお守りを授け、蘇民将来の一家の者の腰に着けさせました。

すると、村に疫病がはやって、みな死に絶えてしまったのに、蘇民将来の一家だけが無事だったのでした。

それから、茅の輪は疫病退散、無病患災のシンボルとなったと言う事です。

武塔神はスサノオの命の事、備後地方は広島県東部の事です。 

 クリックで拡大します。

この歌は、各神社共通とのことです。

皆さん、一緒にお参りしましょう。

最後まで見ていただいてありがとうございました。  辰じいでした。 2018/7/30UPしました。

富田林のPL花火2018

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8月1日は恒例のPL花火芸術が開催された、平日でもあったが、猛暑の中約3万7千人(主催者発表)の見物客で花火芸術に酔いしれた。又、前日は火星の最接近、月と火星の夜空も見上げていた。その一部を紹介します。 2018.08.01 撮影(月と火星は7月31日撮影)

以上はPL花火芸術 2018.08.01 撮影。

月と火星(火星は15年ぶりの最接近、左月 右の白い点が火星)2018.07.31撮影。

蛇足 後ろ姿だが、この鳥は何鳥かな?寺内町で7月28日撮影。


2018.08.02 kusu






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